後遺症――近江、受難の1日――

桜海凪


 

「ごちそうさまぁ」

売店で買った超大盛りカレー二杯を嬉々として平らげてから、ようやく舞子は周りを見渡した。

「………」

唖然としているような疲れているような複雑な表情の近江を、改めて見つめて不思議そうになる。

「………食べないの?――ん?近江くん、その顔どうしたの」

彼の右頬は見事なまでに腫れていたのだ。

「え………あー、いや、気にするな」

近江は虚を突かれたようになった。舞子も、気付くのが遅いくらいだったが本人も、殴られたことを忘れていたようだ。痛みはあっても眼前の少女がおかしくなった時に受けた衝撃に比べれば感じないに等しい。

「ちょっと………ちゃんと冷やした方がいいよ。なんなら一二三呪文でも――っ

てその頬………あたしがやったんじゃないよね?」

近頃、よく記憶が飛ぶ。カルト教団に行って以来のことらしく、はたして何をやったのかどういう状態になっているのか家族に訊いても口を濁すばかりではっきりとしない(父は完全硬直。母はなんだか楽しそうな目線、祖母は別段変わらず、翔子は何とも言えない苦笑で応えていた)。

ほとぼりが冷めれば直るからと翔子に言われて安心していたが、そんなに周囲に迷惑をかけているのだろうかと今頃になって不安になってきた舞子であった。

「違う違う」

近江は苦笑とともに手を振って

「お前に殴られてたらこんなもんじゃすまないしな」

はっきり言って数時間はまずまっすぐには立てない。

「なにそれー、心配してるのに」

頬をふくらます舞子。

「でもほんとに冷やした方がいいよ?その前に一二三呪文唱えたげる」

近江に近寄りその頬に手で軽く触れる舞子だったが、その瞬間

「うわっ!――いい!平気だ!」

近江が跳ねあがるようにのけぞるという過剰なまでの反応を示したのである。

「?」

訝しげに眉をひそめた舞子は、しばしして決意したかのように身を乗り出して真顔で近江に尋ねた。

「ねえ、あたし何をしたの?」

「うっ」

近江の心中には再び灼熱の大嵐が吹き荒び始めている。

訊かれるだろうとは思っていたが。

どう説明せよというのだ?あの状況を?とても説明出来るものではない。「何いってんのー、からかわないでよ」と一笑にふされるならまだしも、下手に話せば「近江君、いやらしい!」ともう一方の頬も腫れることになりかねない。

さきほど頬に触れられて舞子と視線を合わせた時、「あの舞子」をもろに思い出して、動揺してしまった。心拍数急上昇、身体は情けないことに汗だくで沸騰している。

まったく今になってこれとは。

汗だくなのは暑気のせいにして誤魔化せるのが救いだったがいつまでもつことか。彼の心境は「頼むから今の俺に近付かないでくれ〜〜〜〜!!(滝汗)」、である。

そもそも――

(今になってあれはずるいよな)

とつい感じてしまう。

原因はなんなのかわからないが、突然お星さまを宿した夢見がちな瞳で身体をくねらせながら「うふ〜ん近江君ステキ〜〜」など、どピンクのハートマークを周囲に飛ばしまくりながら言われたときは本気で暑さのあまり白昼夢を見ているのではないかと己の頭を疑い、極限まで蒼ざめた。この世のものでないものを見たような気がしたのだ(まあ普段からこの世のものでないものを見ているが、そのとき鐘を鳴らすまばゆい天使様達が見えた………)。冗談でなく。

近江にとっては辰王や剣持や湛が女装し、一緒に手と手を取り合って「おててのしわとしわを合わせて幸せ〜なぁむ〜(お仏壇の長○川)」とのたまいつつ仲良くマイムマイム(ちなみに雨乞いの踊りである)をすることよりも異常な事態だったのだが、腫れた頬が白昼夢を容赦なく否定している。まして朝、黒猫が通りかかるとか靴紐が切れるとか、尋常ならざる何かが起こるという兆などかけらもなく「いい天気だ」、とのんびりとしつつ扇家を訪れたら――。

有り得ないものを目の当たりにし、世の中に絶対はないのだということを近江はしかと理解した。

殴られたことはむしろ正気に戻るのを助けてくれたようなものでありがたくさえあったのだった。(きちんと倍返しもしたことだし。陽一くんにはしばらく全身湿布の日々を送ってもらうが、それはそれ、やむを得ない結果である。むしろ運がいいくらいで、真面目に生きようと決意した彼はきっと幸せになってくれるだろう)

正気に戻ると――次にはほとほと参ってしまった。

普段あんなにさっぱりさばさばとして、秀麗だが不思議とそれを意識させない、男よりも快活な気持ちの良い性格なのに、百八十度趣が変わって妖艶な女と化して迫ってくる

とは、心臓に悪すぎる。反則(?)だ。

大きな瞳が熱っぽく潤み、わずかに開きかけた唇は紅に映えてどきりと艶かしく、形のいい顔の輪郭からむき出しの首筋、二の腕の、なめらかなラインなどが意識されて思わず直視しかねてしまった。おまけに事件のどさくさ紛れではあったが、甘い声とあだっぽい仕種で摺りよってこられた折には。

少年の心中における錯乱振りについては語るまでもない。

ひとの雰囲気というものはまさしく外見ではなく魂によって形作られるものなのだとつくづく実感する。いつもの舞子には容姿が整っているにも関わらずそういった甘い色気はなく闘うとき以外は普通の、人畜無害といってもいいふんわりとした雰囲気なのだ。

(――………生きていると信じられん体験をすることがあんだな、ほんとに)

おかげでこっちは昼食抜きだというのに食欲が湧かない。

食い気より色気の舞子など――しかも自分にしなだれかかって甘えてくることなど二度とない――それはもう二度とない――だろうから、「舞子らしくない」と思ってはいても一方で、少々残念な気がしないでもない。もしかしたら自分を男として見てくれたのはあれがはじめてだったのではないだろうか。女として男の自分を見つめてくれたのは。それゆえ正直嬉しくあったが、あれはいつもの舞子ではないと嫌と言うほどわかっていたし、普段の彼女の方が好ましいのは無論であった。

「ねえってば!」

「え」

はっ、と目の焦点を現実に引き戻すと

「『え』じゃなくて。あたし何かしたの?」

ばっちり少女の瞳と合わさってしまったではないか。

――限界だ。

「と、とにかく帰るぞ!」

そう簡単に動悸が鎮まるわけがない。ますます近付いてくる舞子から顔を背け、逃げるようにバイクへと向った。

「………いやぁ、いいもの見せて頂きました」

長髪頬傷の鍼医はしみじみと頷いた。その横で夏でも黒スーツの男が腕を組んで頷いている。いや、唸っている。

「信じられん………いやーまったくもって信じられません」

「うむ。わしも目を疑った。だが最高に珍しい肴じゃろうが」

老婆が八角遠見を解いて、長髪の男に向けて盃を差し出した。「確かに二度とない珍味ですね」呟きつつ鍼医は大人しく老婆に酒を注ぐ。

「………三人とも、なに覗き見してるんですか………」

三人の後ろではつまみを運んできた翔子が汗を浮かべんばかりに呆れ、硬直して立ち尽くしている。

「おや、翔子、遅かったね。ついさっきまで面白かったんじゃぞ。無粋かとも思ったがこれは見んわけにはいかんかった」

「すみませんね、翔子さん、おつまみを運ばせてしまって」

「おう、ありがとう。朝子さんもすみません」

「いいえー、久しぶりですもの。どうぞごゆっくりなさって下さい。夕飯も召しあがって行って下さいな。今日は大勢ですから焼肉でもしようかと思ってますのよ」

朝子はにっこりと笑って盆から卓子へとつまみを移す。

「お母さん………」

翔子が汗を浮べつつ、マイペースな母に訴えかけるが、さすがに千景の娘。覗き見をしていた三人を見ても注意するでもなく一緒に楽しんでさえいるようなのだ。

そういえばおかしくなった舞子を見てもこのひとは錯乱するでもなく動きを止めた一瞬後には、手を叩いて

「こんな舞子、滅多に見られないわ、今のうちに色々させてお写真でも撮っておきましょう」

やたらと嬉しそうに舞子に化粧をさせたり着せ替えをさせて楽しんでいたりしたのだ。

もはやツワモノという域を超えているような気がする。朝子の突拍子のなさは絶対舞子に受け継がれたのだと翔子は思った。仕方なく扇家一の常識人――と思われる――の父に助けを求めたが父も達観しているようだ。何も言わず、三人の酒呑みに加わってつまみに手をのばしている。その目に「翔子、言っても無駄だよ………」と温かくもそこはかとない哀愁を翔子は読み取った。

剣持、錦織。このふたり、ばあさまに「面白いもんが見られるから暇ならうちへ来い」と言われて本当に来てしまった口だ。翔子は頭を抱えたがさらに頭を抱えたのは当然、扇家に報告に戻ってきた近江だった。

「!なんでいるんですか!二人とも!」

剣持、錦織に向っての開口一番である。

「よっ」

「ご苦労でしたね、近江君」

にこやかにいけしゃあしゃあと言い放つ酒呑み二人。

「いらっしゃーい。剣持さん、錦織さん!あ、なんか食べてる!」

舞子は明るく挨拶をすませ、早速つまみを頬張りはじめるが、手を洗ってからと朝子にたしなめられている。

茫然とした近江に気遣う様に横から話しかけたのが翔子だった。小声で

「近江君………舞子、やっぱりおかしくなった?」

「――――――なった。………一体どうしてあんな風になったんだ?」

翔子はかくかくしかじかと例の後遺症について語った。

「………はじめから言っておいてくれよ………頼むから」

聞いた後の近江は完全に脱力した。畳にめりこむが如く座りこんでしまっている。強敵と戦った後でもこれほどの疲労を感じはしないだろう。

「ごめんね………説明してもわからないと思って………している時間なかったし」

翔子は心底すまなそうだった。

「………参った。だけどあいつ………やろうと思えばいくらでも男惹き付ける事が出来るんじゃないか?」

ほろりと本音が洩れる。

「まったくね。舞ちゃん、ただでさえもてるのよ。どっちかといえば女の子に圧倒的にもててるんだけど男の子にもかなり。――自覚が全然ないから周りが苦労するんだけど………」

翔子も苦笑する。

それはこの姉も同じだ。扇姉妹はやろうと思えば老若男女問わず、限りなく人を惹き付ける事が出来るだろうに、それをやらないのは彼女たちが自身の魅力に無自覚または自覚したとて無頓着であろうからだ。

「あの自覚のなさは犯罪ね」

「まったくだ」

少年は深深と同意する。翔子は微笑した。

「――今日はお疲れ様。御飯食べて行ってね」

ぽん、と近江の肩を叩いて励ますと、酒呑み達の相手をすべく席に加わっていく。

少年は、はぁ、と溜息をつくとやがて振り切る様に立ちあがり酒席へと向かった。

「近江くーん、事件のあらまし聞かせてよー。あたし途中の記憶ないからさ」

夕飯前だというのに、すでにかなりの酒量を干した舞子だが平然と近江に笑いかける。

ぽんぽんと隣に座る様に座布団を叩く。

「そうそう、どうでした?近江君」

剣持も覗き見していたことは欠片も感じさせず上機嫌で尋ねる。

「あ………まあ手っ取り早くすみましたけど」

何気ない顔で応えてみるが、

「近江君、あのひとたちとやりあったんでしょ?見たかったなあ。久々に近江君のかっこいいアクションが見られると思ったのに記憶ないんだもん」

「………そうか………」

不覚にも耐え切れず赤面してしまった。にこにこと微笑んだ舞子の表情と言葉に。

ほっ、と気が抜けた。

(俺は………やっぱりこっちの方がいい。安心する………)

彼女の魂に一番そぐう自然な表情のひとつだった。

(外見じゃない。外見もいいけどこいつの中身は上っ面を超えてるんだ)

命を燃えあがらせ闘いに身を投じている彼女を想像すれば、昼間見たような蟲惑的な妖艶さをも超えて遥かに美しいと近江は感じ入る。その激しい様に、幾度魅せられたことか。身震いすら総身を駆け抜けた。

あの時の舞子は誰よりも人目を惹きつけてやまず、彼女のすべてが最も煌いているその刹那に自らも共に在りたいと、いつも心に感じながら彼は闘ってきたのだ――………

「おやおや近江君(まだ呑んでいないのに)もう酔ってしまったんですか?」

不意に師匠のからかいを含んだ声が耳に届いて我に返った。ついむっとする近江。

自分が出掛けた時にはまだ大船にいたはずだというのに、いくら多めに見積もって2時間半もあればこっちに着くとはいえ、このひとは。

「――あのですね、剣持さん」

「はい?」

「錦織さんもですけど、何でいるんですか」

「まあ、いいじゃないか」

錦織がこちらも上機嫌で今度はビールを片手にしている。

「明日はちょうど休診日ですしね」

これは剣持。

「わしが呼んだんじゃ」

扇家の大黒柱はしれっと答え、日本酒をどんどん空けている。

まさか。何となくいやぁな予感が走った。

(まさか―――――な〜〜〜)

静止画面のように浮いた彼にかまわず他の人々は大いに手を動かして前菜を楽しんでいる。

「ん。どしたの?」

舞子が話しかけてくるのも耳に入らない。結局彼は夕飯が終わって一息つくまで緊張し通しだった。腹もくちくなってそろそろ気分も緩慢になりかけたころ、またしても大人達は飲みなおし始めた。

客人は全員、扇家にお泊りと相成ったようである。この家は五人家族のみが住むには、いささか広すぎるくらいで使われてない部屋のひとつやふたつはあったから、それらは客間に振り当てられている。

千景、翔子、舞子がちょっと席を外し、剣持、錦織と近江、三人だけになった頃、さり気なく剣持は切りこんだ。

「それにしても近江君、元に戻る前の舞子さんにちょっとばかり未練があるんじゃないですか?」

相当酔ってきているようだ。顔色は変らないがなんとなくわかる。

「!!」

大きく息を吸いこんだ。嫌な予感的中。

「どーーして!!知ってるんですか!!」

立ちあがって大音声に問いかけたが、答えは訊くまでもなくわかりきっている。

祭と事件により騒々しい気が充満していたせいと、余裕がないせいで見られていることにとんと気付かなかったのが仕方ないとはいえ、酷く悔しく、歯軋りが洩れる。

「――――――!!」

肩を震わす近江に剣持は微苦笑して

「ま、勘弁してくださいよ。おばあさんに呼ばれて来たまでのことなんですから」

「そういうことだ」

錦織もかなりきている。こちらは顔色に出ていた。

(あ、あのばあさん………)

怒りを覚えても仕方のないことだった。まさに成り行きなのだ。また、プライバシーを覗き見られたわけでもないから怒る理由もないのだが、自分でも判然としない妙な悔しさを覚えていた。

「でも近江君、かなり役得とも言えたのでは?ある意味災難でしたけども」

「………………」

ノーコメントだ。身体中の熱さを抑えるのが精一杯で何も答えられないし答えたくない。

「しかし驚いたよな。たいしたもんだ。あの舞子さんが――というと失礼だが――あんなに色っぽいなんてなあ」

錦織はしきりに驚嘆しているようだ。

「毒気に当てられていたといっても、びっくりしましたね。これは近江君、ますます油断は出来ませんよ」

「これからどんどん磨かれてゆくだろうしな」

二人にとっても意表を突かれた珍事であったがゆえ、本当なら覗き見したことを内緒にしておくはずが、驚きのあまり感想が抑え切れずに口から出てきてしまっている。

「ねえ、どうしたの?近江君、大声あげてなかった?」

噂の当人の再登場。

「近江君は酔いがまわってきたようですよ」

「あんまり呑ませんなよ、剣持」

それでもなんてことのない話題に興じていたかのように笑いかける剣持、錦織に近江は感心を通り越して呆れ果てた。

「ふぅん。近江君、弱いんだから無理して呑んじゃだめだよ」

「あ、ああ」

「ね、まだ教えてくんないの?記憶が飛んでいたときのあたし、どんな状態だったわけ?」

「う」

あのまま忘れていて欲しいと願っていたのに。

「みんな教えてくれないんだよね。そんなに変な状態だった?もしかして近江君にお色気たっぷりで迫っちゃったとか?まさかねえ」

冗談まじりに舞子は朗らかに笑うが、半瞬周囲の空気が止まったことには気付いていない。

剣持と錦織はとうとう耐え切れずに爆笑した。

「え?なに?」

騒動の本人は相変らずきょとんと、からかわれた本人は氷の彫像と化してしまっている。

叩いたらたやすく割れそうだ。

「近江君、これは呑んで有耶無耶にしてしまうしかありませんね。さ。どうぞ」

笑いながら剣持がグラスを渡す。

「―――――――――頂きます」

今日ばかりは是非もなかった。素直に杯を受けた。アルコール度数は相当のシロモノがなみなみと注がれる。

「えっ、なに!?教えてよー」

(ままよっ)

舞子の追及に耳を貸さず、ぐいーっとあおった。一気も一気、剣持が「そんなに慌てるとよくないですよ」とたしなめるほどの勢いで。

数分後、彼の意識は幸せにも暗転し――緊張の糸が切れたともいう――受難の一日が終わりを告げた。

こうして覗き見うんぬんに関して、翌日起きた近江は見事なまでに覚えていなかったため、大人たちの思惑通り、しっかりと有耶無耶にされてしまったのだった。

舞子の後遺症は跡形もなく消えたが、近江にちゃんと平穏な精神状態が戻ってきたのかどうかは定かではない。