小料理・剣持亭〜夜半の月〜 第一話

渡橋ないあ


 その店は駅の近くにあった。
 鎌倉駅から程近い、細い路地に暖簾をかけている。
 出てくる料理はどれもうまく、それについてくる酒もまたうまい。酒が料理を引き立て、料理が酒を引き立てる。その絶妙さがなんとも言えず、つい足を運んでしまう、そんな店だ。店の中の雰囲気や小さな心使いもその味を引き立てるのだろう。とにかく、うまい店なのだ。
 だが、それを味わえる客はとても幸運なのかもしれない。
 この店はなぜか突然長い休みに入る。短くて2,3日。長ければ1週間以上も閉まったままになる。
 そして何もなかった様に、また暖簾がかかっているのだ。
 なんとも奇妙な店だろう。しかし、駅から近いという強みが客足の途絶えない理由なのだろうか。
 今日も程よく客の入っている店からは明るい声が聞こえてくる。
「小料理・剣持亭」
 俺は仕事で偶然この近くにきた折、一緒に来ていた仕事場の先輩につれてこられてきた。それ以来、何度か自分で足を運んでいる。わざわざ東京から来るのである。そこまでして、と思われるかもしれないが、しかしそのくらいしてもいいと思う位、俺はこの店が気に入ったのだ。
 今日も店には暖簾がかかっている。俺はそれを心のそこから喜び、暖簾をかき分けたのだった。
「いらっしゃい」
 男でも心地よいと思う声が聞こえてくる。ここの店主の声だ。見るとカウンターに男が一人立っている。割烹着姿が妙に似合うその男は絶えず笑顔だ。かなりの美形の部類に入るだろうその顔には、なぜか頬傷がついていた。そしてその傷が笑顔の奥にある彼の人生を物語っているかのようだ。先輩の友人だそうなのだが、いったいどんな友人なのだろう・・・。気にはなったがあまり深入りしては、と思いこれ以上聞かずにいる。
 そんな彼がすべてをまかなうこの店には、すでにカウンターに1,2席しかない。カウンターに数席、座敷が2つ。本当に小さな店だ。店の中は程よく客が入っていて、しかし混んでいるという印象もその逆も受けない。初めての客が店に入る気に一番なる人の入り具合だろう。
 俺は最初にここを訪れたとき以来ずっとカウンターに席を取る。そうして店主からまず水を受け取るのだ。
「どうぞ。お疲れ様です」
 仕事帰りの客の多いこの店で、店主はそういってまず水を客にわたす。この水で疲れを取り、ここの料理で心と胃袋を癒すのだ。事細かな店主の気遣いが感じられる。
「ああ、ありがとう」
 俺はそういって水を一口飲んだ。ここまできた疲れがよく取れる。普通の水ではないように思えるのだが、以前この水について店主に尋ねたところ・・・
「ふふふ・・・それは秘密です」
 といわれてしまった。それ以来聞いていない。どう聞いても教えてはもらえなさそうな口ぶりだった。どうもこの店主には言い表せぬ独特の雰囲気がある。そして俺はその雰囲気に飲まれてしまっているらしい。
「『今日のおすすめ』は?」
 水を飲んで落ち着いた俺は店主にそう聞いた。
「そうですねえ・・・」
 といい、主人は今日仕入れのときに見つけた魚をさばいてくれるといった。
「やっぱり新鮮なお魚は生き作りが一番ですからね」
 と言いつつ、見事な包丁さばきで花のように刺身を盛り付けていった。そして酒と一緒に目の前に出してくれる。この店では客の注文した料理に合わせた酒が出てくる。こっちが酒を指定してもいいのだが、それ以上に料理と合う酒が店主から選び出されるとなると、この必ず失敗しないギャンブルを楽しみにしてしまう。店主の趣味でもある日本酒の収集――それも大吟醸の銘酒ばかり――は本当に種類が豊富で毎回違う酒が出てくるような感じがする。これだけの酒の味を知り尽くしているのだろう。少しも迷うことなく酒は料理につけられてくるのだ。俺はここにきて酒の奥深さと楽しさを知った。そして店主の知識の豊富さに脱帽するのだった。
 この店主は話題が尽きない。最新のニュースから古い伝承までとにかくいろいろなことを知っている。健康に気を使っているのだろうか、「〜に効くつぼ」とか言う類の物まで知っている。本当に知識は広く、深かった。俺は酒を呑みながらカウンターの中で料理をする店主と言葉を交わしたりその見事な手さばきを見たりする。そして料理に手をつけるのだった。
 初めて入ったらしい客が座敷にいるらしい。料理のうまさをあれこれ御託を並べて説明している。どうやらかなり酒が回っているようだ。ここにくる前にすでに出来上がっているのだろう。
 俺はここでは不思議と深酒をしない。ただアルコールを体に入れるだけならばもっと違う店を選ぶ。ここは酒を飲むための店じゃないからだ。ここで酒を呑んでいるとちょうど心地よい気分になったところで料理が尽きる。そして腹も満腹になっているからこれ以上のつまみと酒を頼まなくなるのだ。ここまで店主は計算しているのだろうか・・・俺はこの店主をこの店と同じくらい気に入っていた。
「ん?」
 カウンターは俺のように一人で飲むものが多い。じんわりと一人でこの店に浸っているやつらが大半だ。あるいは連れと二人で来てのんびり語っているか。そんな奴らの中、俺は妙な客がいることに気がついた。
                                  〈続く〉