小料理・剣持亭〜夜半の月〜 第ニ話

渡橋ないあ


 その客はカウンターに一人でいた。
 店内は明るいのにそこだけ妙に暗い印象を受けるのは俺だけじゃないのだろう、店主がちらちらと目をやって気にかけている様子だ。俺はここにそう頻繁に足を運んでいるわけではないが、それでも顔なじみの客はいる。しかしこの客には見覚えはなかった。
いつからいるのだろう。歳は50に近いだろうか、俺が来たときにはすでにカウンターの隅を陣取っていた。そしてため息をついては酒を口に運び、またため息をつく。それを延々繰り返しているのだ。そして俺はどの客よりもそいつに近い位置にいた。だから余計に気になったのかもしれない。
「おいおっさん。なんかあったのか?そんなにため息ついて」
 俺はいてもたまらなくなってとうとう口を開いた。このままほっといても気になるだけだ。
「ええ・・・ちょっと」
 男はそういってまた酒を口に運んだ。
「よろしかったらお話を聞かせてくださいませんか?そうすることで気分が少しでも晴れることもありますよ」
 店主も俺に続いて声をかける。
 しかし、店主自体は店があるから男に付きっ切りというわけにもいかない。それでも意識をこちらに傾け、常に気にしている形となりそうだ。
 店主の言葉に男も話す気になったのだろう。「こんなことを相談するのもなんですが・・・」と前置きをつぶやいた後悩みを打ち明けたのだった。だったのだが・・・
「実は・・・娘の帰りが遅いのです」
 ・・・は?
 俺は耳を疑った。近頃の世の中帰りの遅い娘は山ほどいる。この男の娘ならば20歳そこそこだろう。その年頃の娘の帰りはたいてい遅いものだ。
 まあ、それを心配しない親はいないだろうが、だがこの男の落胆の様は尋常ではなかった。まるでこの世の中がもうすぐなくなってしまうかの様だったのだ。だから俺はもっと深刻な悩みだと思っていただけに耳を疑わざるをえなかったのだった。
「ま、まあ・・・娘だって夜遅くまで遊んでいたい年頃なんだろう。それほど深刻に考えることじゃあないんじゃないのか?」
 何だ、そんなことか。俺はそう思った。だからそういったのだが。男にとってはそんないことでは済まされるわけではなかったようだ。
「そんな気楽なものじゃあないんですよ!」
 そう言って男は俺の言葉を聞いて急に立ち上がると、テーブルにドン!と握り締めた手をたたき降ろした。そして俺の方を睨み捲し立てる様に話し出したのだ。
「うちの華南はで男手ひとつで育てたにしてはそれはそれはいい子なんだ!いつもは私が帰ってくるのを、夕食を作って待っていてくれるほどだったんだ!絶対に無断外泊もしないし、遅く帰るときには前もって必ず私に言っていたんだ!誰にでも好かれるいい子なんだ!美人で気立てもよくって素直で明るくて・・・・・その辺の娘と一緒にしないでくれ!」
 店内が静まり返った。男の怒涛の言葉に拍子抜けした俺は一瞬の注目に気がつくまでしばしの時間があった。
 一方、はあはあと息を切らせて男は席に着いた。店主がすかさず水の入ったコップを差し出す。それを合図に俺たちの注目は溶け、また店内はざわざわとしだした。
 男は店主からの水を一気に飲み干すと
「本当にいい子なんだ・・・なのになんで・・・・」
といって泣き出した。どうやらこの男、本来飲むとウェットになるタイプらしい。さっきは興奮していたが・・・こりゃあ相当酒が入っているな。この店でここまで酔う奴も珍しい気がするが、元々酒に弱いのだろう。
「その娘に男はいるのか?」
 俺はうつむいている男に切り出した。女なんて付き合っている男でいくらでも変わる。この娘もそれじゃあないのだろうか。
「娘は・・・私の部下と付き合っています。部下を家に連れて行ったときに気が合ったとかで・・・でもそれはもう2年も前の話ですよ、なのに娘の帰りが遅くなったのはつい最近なのです」
「ほかに男ができたとかはねぇのか?」
「まさか、娘は部下に惚れているのはよくわかります」
 取り付く島もない。この線ではないと、この男は信じているらしい。
「それに最近は体調が悪いとかで仕事にくるのがやっとなようなのです」
「じゃあその見舞いに行ってるとか。食事やなんか身の回りの世話をしてりゃあ遅くなるもんだろう」
 それなら最近帰りが遅くなったのも理由がつく。
「それなら私に何も言わないのはおかしいでしょう。隠すことでもないし、逆に私は見舞いに行けと言っているくらいですよ」
「そうか…」
 俺は考え込んでしまった。人の悩みでここまで悩むのもおかしいのかもしれない。だが突っ込んだ首は簡単には抜けないらしい。
「本当に今まではこんなことはなかったのですよ。お互いの行動にも口を出さなかったのですよ。出さなくてもこんなことはなかったのです」
 一番手っ取り早いのは娘にじかに聞くことだ。しかしそれは、男の娘への信頼を失いたくないという思いがそれを嫌がるだろう。そんなことを聞けばいままで自分が置いていた娘への信頼、また娘からの信頼の両方を失うことにもなりかねない。
 なんでなんでしょうかねえ、と男は泣きながら俺に問い掛けてきた。俺はそんな男をみながら一緒に頭を抱えていたのであった。
                                  〈続く〉