小料理・剣持亭〜夜半の月〜 第三話

渡橋ないあ


「はあ・・・」
俺はひとつため息をついた。
どう考えても俺にはこの男の娘の帰りが遅くなる理由が思いつかない。
娘本人を見れば少しは考える手立てがあるのだろうが、あいにく俺にはこの親ばかの男からの情報しかなかった。
「私はただ・・・娘が心配なのです。何かややこしいことに巻き込まれていないだろうかと・・・」
「友達とかの線はないのか?」
友人の付き合いでも結構遅くなる。かく言う俺はここに通い始めて週に何度か家へ帰る時間が遅くなってきていた。こんなこともよくあることだ。
「だったらなぜ私に言わないのでしょうか。元々友人との付き合いで遅くなるときは前もって私に言っていましたし。別に私もそれで怒るような心の狭い親ではありません」
確かに元々親子仲のいい状態ならば、それを隠すこと自体がおかしい。前までは報告していたことをいきなり言わなくなるのもおかしな話だ。
「少しよろしいでしょうか」
男二人が並んで考え込んでいるところに店主が声をかけた。
「お客さんはいつ頃帰られているのですか?」
そういやあ・・・この男の言う「遅い」は何時なのか考えてもいなかった。
「普段は8時ごろなのですが、最近は仕事が遅いので大体12時ごろになっています。娘は・・・・3時ごろでしょうか。なんにせよ、私は夕食も外で済ませていますし、帰ってすぐに眠っていますから…でも私が帰る時間にもまだ娘は帰ってきていないのです」
「確かにそれは遅いな」
3時過ぎなんて・・・本当に放蕩娘じゃないか。俺はそう口に出すのをこらえた。
「今まではそこまで遅くなるくらいだったら友人の家に泊まるなどしていたのですよ。もちろんきちんと私に断ってです」
そういうと男は口に猪口を運んだ。
「朝はちゃんと起きてるのか?」
俺はふと思った。今まではそれだけ遅くなれば宿泊しているのに、今は家に帰ってきている。そうまでしても家に帰る理由があるんだろうか。
「ええ。朝は必ず私と朝食を取ります。いつも娘が作ってくれるのですよ」
そういうと男は微笑んで付け加えた。
「娘は料理が上手でね。将来はいい嫁になりますよ」
――嫁。その言葉を口にしたとき、男は恥かしそうなうれしそうな、しかしどこか寂しそうな顔になった。「嫁」の言葉は父親を複雑な気分にさせるらしい。娘を持ったことがないどころか嫁をもらったこともない俺にはわからない感情なのだろう。
「じゃあ、お客さんと朝食を食べるために帰っているのですね」
にっこり、と店主はいい間合いで言ってくれた。
その言葉に男は気を良くしたようだ。照れくさそうにつぶやいた。
「そう・・・なのでしょうかね」
「きっとそうだぜ」
俺は自分の猪口を持ち上げて男に目配せをした。
しかし、この男の娘の行動が気になる。男の話からすれば帰りが遅くなっているのは3日ほど前かららしい。大体男のほうも1週間ほど帰りが遅いので、もしかしたらそれ以前から遅くなりつつあったのかもしれないとのことだ。
なんにせよ、原因がわからない限りはこの男の心中はさぞかし落ち着かないだろう。
「今日も遅くなるのだろうかと思うと、仕事が早く終わっても家に帰る気がしなくてこうしているのです」
男はそうつぶやいて、またうつむいた。
「今日は早く帰ってるかもしれねぇじゃないか」
「ええ。でも・・・もし早く帰ってきていなかったらと思うと」
そういったまま男は黙り、しばらく沈黙が流れた。
それを破ったのは店主だった。
「こうしてはどうでしょう」
店主の言葉に無言になっていた俺と男は顔を向ける。
「お客さんは明日の帰りは遅いのですか?」
「いえ。明日は定時に帰れますが」
男の言葉に店主は笑顔で
「なら娘さんと夕食を一緒にする約束をされてはいかがでしょうか?」
と、提案した。
「娘さんの帰りが遅くなるというのならばその理由を聞けるでしょうし、そうでなければ早く帰ってこれるということでしょうからね」
「いい考えだな」
俺はそう言って男を見た。だが男の顔は不安そうだった。
「しかし・・・」
「とりあえずはそんな感じで誘ってみるだけでもいいんじゃないのか?こうやって心配してるだけじゃあ何も始まらないぜ?」
「行動に移すことが大切ですからね」
俺と店主の言葉に男も少しは動く決意がしたのだろう。男は少し明るい顔で
「そうですね。考えてみたところで、わからないのですし。明日の朝にでも持ちかけてみることにします」
といい、一件落着したのだった。
・・・・したはずだった。

                          《続く》