小料理・剣持亭〜夜半の月〜
第四話
渡橋ないあ
- 剣持亭での一件から数日がたっていた。
- 俺はいつものように仕事に出ていた。めずらしく先輩も顔を出しているらしい。
- 剣持亭を紹介してくれた先輩は席を空けることが多い。以前の所属先の先輩ということもあり、俺は今彼がやっている仕事の内容はよくは知らない。だが、中々ハードなようだ。長期の出張から帰ってくるたびに表情が深みを増してきている。俺と仕事をしていたときとは比べ物にならないくらいだ。
- 仕事が早く終わった俺は剣持亭に顔を出そうと思っていた。そんなときのことだった。
- 「おい」
- 帰ろうとする俺を呼び止める声があった。
- 振り返ると、先輩だった。タバコを咥えながら片手を挙げて呼び止めている。
- そして俺の近くまでくると
- 「たまにはどうだ?」
- といい、飲むしぐさをした。
- こっちから誘おうと思っていたところだった俺はすぐさま了解をした。
- 「実は剣持亭へ行こうと思ってたところなんスよ」
- 俺は上機嫌でそういった。先輩とは久々に飲みに行く。剣持亭に行くのはこれで2回目か。連れて行ってもらったときと、今日と。
- 俺はこの先輩を尊敬していた。一緒に仕事をしていたとき、その行動力と自分への自信に圧倒された。己の信じる物のみを信じる姿勢は俺の理想でもあった。最近の先輩はそれに加えて人間的に深みを増してきている。男の俺から見て、相当いい男だった。
- 「そうだな・・・久しぶりにいくのもいいかもな」
- そう先輩が口にしたとき、携帯が鳴った。
- 先輩は着信を確かめてから耳に当てて話し始めた。
- 俺はその間たばこを一本取り出すと灰皿の近くに寄って先輩を眺めていた。先輩を飲みに誘う電話だろうか。
- だが先輩はしばし話した後、俺のほうを見て手招きをした。
- 俺は何の用かと思いつつ、たばこを灰皿に押し付けてから先輩のほうへ歩いていくと
- 「お前に電話だ」
- といって電話を渡されたのだった。
- 先輩の携帯になんで俺への電話がかかってくるんだ? 俺は疑問と不安を覚えながら先輩から電話を受け取った。
- 「もしもし?」
- 「あ、もしもし?剣持亭の店主です」
- 俺が名乗るとすぐ、電話のむこうから明るい声が聞こえてきた。
- 「いえ、いいものが手に入ったので、よろしかったら今日いらしていただけないかと思いましてね」
- あいも変わらずの様子で店主は話し始めた。
- 「それでお誘いの電話をかけさせていただいたのです」
- 電話の向こうでにこり、としているのが手にとるように見える話し方だ。
- 「今先輩と一緒にのみに行こうかといっていたところだったんだが」
- 俺は上機嫌でそう言いつつ先輩のほうを見た。しかし・・・なにやら先輩は渋い顔をしてたばこをふかしている。
- 俺の言葉を聞いたんだろうか、先輩は
- 「悪い。用事を思い出した」
- そういうと明後日の方を向いてしまった。俺には訳がわからなかった。
- 「お客さんだけでもいらしてください。お話したいこともありますしね」
- そういうと「では、失礼します」と店主は電話を切った。
- 「先輩?どうしていけないんスか」
- 俺は電話を切り、先輩に渡しながら聞いてみた。
- さっきまでは乗り気だったはずの先輩が、いきなり態度を変えた理由が俺にはわかりかねたのだ。
- 「ああ・・・」
- 先輩は俺から目をそらすようにしつつ、
- 「面倒には巻き込まれたくないんでな」
- とつぶやいた。
- 結局、剣持亭には俺一人で行くことになった。先輩の態度に少々の疑問と不安を感じながら、しかし好奇心と店主の言う「いいもの」が気になって仕方がなかったのだ。
- 暖簾を掻き分けるとまたあの心地よい声が聞こえた。今日は少し時間が遅いせいか、客の入りはこの間ほどではない。これなら店主もゆっくり話ができるだろう、そんな程度だ。
- 「今日は牡蠣のいいものが手に入ったんですよ、だからどうしてもお客さんに食べていただきたくてね♪」
- 上機嫌の店主は俺にそう言うと、あっさりとした軽めの酒と一緒に生牡蠣を置いた。
- 「このたれをつけて召し上がってください。レモンの酸味がおいしいですよ」
- そういうと店主は次の料理に取り掛かる。俺はその手さばきをしばし眺めて
- 「で、俺に話したいことがあるっていってたが」
- ときりだした。俺がここにきたのはそれを聞くためである。もちろん、この料理に舌鼓を打つためでもあったが。
- 「ああ、そうでしたね」
- 店主はそういうと少し俺から離れた。帰る客の相手をしてからカウンターに俺だけしかいなくなると、
- 「この間話をしていらした男性のことを覚えていらっしゃいますか?ほら、娘さんを心配していらした」
- と言ってきた。
- 「ああ、あのオヤジのことか?」
- 娘の帰りが遅い、ただそれだけで真剣に悩んでいた男の事を俺は思い出した。確か・・・あの時は店主が解決をしたんだった。
- 「さすがにあれだけのことで真剣に悩んでる奴も珍しかったな」
- 「それだけ娘さんのことが心配なのですよ」
- 俺の茶化し半分のせりふに少しだけ微笑んで、店主は言った。少しさびしげでもあった・・・気がした。
- 「で、です。その男性が昨日娘さんを連れておいで下さったのですよ。そして『ありがとうございました』とこれを置いていかれたのです」
- 店主はそういうとカウンターの影から一升瓶を取り出した。そこに書いてある銘は「越乃寒梅」、新潟の酒だ。
- 「何でも男性の親戚筋が新潟にいらっしゃるとかで。送って頂いているそうなのですよ。それで御裾分けいただいたのです」
- なるほど、店主の上機嫌はこれだったのか。様々な酒の出てくる剣持亭の主人は日本酒が殊のほか好きだ、と以前先輩から聞いたことがある。あいつの機嫌をとるには銘酒が一番だ・・・と。なるほど、確かに上機嫌だ。
- 店主は早速栓を抜くと冷酒用のグラスに注ぎだした。自分も呑むつもりなのだろう、グラスは2つ用意されている。
- 「はい、どうぞ」
- 店主はそういうと俺の前に並々と酒の注がれたグラスを置いた。そして俺が手にとったのを確認すると
- 「いただきます」
- といって飲み干した。
- 俺も口に持っていく。日本酒独特の香りと、フルーティーな口当たりがなんとも言えず幸せにさせてくれる。
- うまい酒にはうまい肴。俺は目の前にある牡蠣の陶板焼を口に運ぶ。
- 「おいしいですねえ」
- 店主も気に入ったようで、既に次の酒を手酌で注いでいる。そして俺のグラスにも酒を継ぎ足した。
- 「今日はゆっくりしていってくださいね」
- そう断りきれない笑顔で言いながら。
《続く》