小料理・剣持亭〜夜半の月〜
第五話
渡橋ないあ
- 俺たちはしばし酒を酌み交わしていただろうか。
- 店主も俺も程よく酒が回っている.店内にはもう客は俺だけだった。
- 俺たちはたあいもない話をしながら男からもらった酒を半分ほど呑んだだろうか。
- 上機嫌の俺たちに一本の電話が入った。
- 店主は箸を止め、カウンター内の電話を取ると
- 「ええ、やはり。それで・・?」
- と話し出した。
- 俺はその会話の内容をあまり気にせず一人で肴を楽しんでいた。だが電話を切った店主はそのまま席に戻らず、店の入口に向かっていったのだ。
- 「なんだ?もう閉店なのか?」
- 俺は、暖簾を片付けている店主を眺めながらいった。
- 「ええ、用事が出来たので」
- いそいそとしている店主をみながら俺は、それならばと帰り支度を始めた。そんな俺を見て店主は
- 「そういえば、今日は電車でいらしたんですか?」
- と聞いてきた。
- 「ああ。呑んで帰るんだ。車を運転してやばい目にあったら大変だからな」
- 自宅の近くで呑んでいるのならまだしもここは鎌倉だ。普通に走らせても結構の距離がある。呑んだ状態であまり慣れていない道を走りたくはない。幸いにも住まいが駅に近いため、普段の通勤にも利用しているくらいだ。今日は仕事からそのまま俺はここにきていた。
- 「そうですか・・・」
- 店主は俺の答えを聞くとなにやらしばし考え込み、再び電話に走った。どうやらかけているのはタクシー会社のようだ。これからどこかへ出かけるとでも言うのだろうか。
- 「さて、少々酔い覚ましの散歩に付き合っていただけませんか?」
- 店主は電話を切ると俺に向かってそういった。
- 「ああ・・いいが」
- 店主のある種逆らいがたい笑顔に俺は思わず答えてしまった。だが、酔い覚ましの散歩にタクシーを使うとは・・・どこまで散歩をしに行くんだ?
- さすがに駅が近いだけ合って、タクシーは早かった。俺の疑問をよそに店主はタクシーが店の前に止まったの気がつくと、外へ出て俺を手招きした。
- 「タクシーを使うのか?」
- さっきから質問攻めだ。だが俺には店主の行動が不可解でならなかった。俺は蚊帳の外・・・だが確実に蚊帳の中に引きずり込まれようとしている、そんな感じだ。
- 「ええ・・・どうやら少々遠出になるようなので」
- 店主はさっき電話をうけていたときに書いたらしいメモを見つつ言った。そこにこれから行く散歩の場所が書かれているのだろうか。
- 「俺も行った方がいいのか?」
- なにやら普通の散歩じゃない。そんな気がした俺はこう聞いてみた。俺には店主がそのメモの場所に連れて行きたがっているように思えたからだ。
- 「ええ、やはりお客さんには最後まで付き合っていただく権利があるでしょうから」
- 店主は俺にそう言うとタクシーに乗り込んだ。
- 俺は訳のわからぬまま、店主の言う「権利」を行使することにし、タクシーに乗ったのだった。
- タクシーは2,3度メーターを動かし、樹木のおおい茂る森の一角で止まった。
- 剣持亭からどれくらい離れているのだろう。地理に疎い俺にはここが一体どこなのかわからなかった。道路をはさんで木々の生える森が広がっている。どこかの寺社の一角なのだろうか。
- さすがに深夜なだけあって、人が通る気配はない。点々とおいてある街灯と月以外に明かりはなかった。だが、街灯の光も森の中へ入れば意味もなくなるだろう。時折鳥の鳴き声と思える音が響いているだけの、実に薄気味悪い場所・・・そんな印象が俺を襲った。
- 店主はあたりを見回し、一人の男を街灯の下に見つけるとそこに向かって歩き出した。
- 背格好からすれば17,8歳だろうか。バイクにもたれて缶コーヒーでも飲んでいたらしい。俺たちを見つけると缶をバイクの上においてこっちに向かってきた。
- 「ご苦労様です。で、どちらに?」
- 店主は青年に向かってそう聞いた。青年はこちらをちらり、と見た後
- 「この奥です」
- といって、左の森を指差した。
- 「そうですか」
- 店主はそう言って、森の奥を見た。森の奥は本当に真っ暗で何も見えない。この奥に何があるのだというのだろうか。
- 俺は何もわからず店主のほうを見た。店主の顔にいつもの笑顔はなかった。そのかわり、別人かと思えるほどの鋭さがあった。店主の笑顔の奥にあった物の一つ・・・そんな気がして、俺は身震いをした。この男は一体何物だろう・・・あの穏やかな店主とは本当に同じ人間なのだろうか。恐ろしいほどの冷たさを感じた。まるで鋭利な刃物のような。
- 「さて、行きましょう。早いほうがいい」
- そう言うと店主は森の奥へと足を向けた。青年もそれへ続く。
- 「お、おい」
- 俺の呼び止めに二人が振り返った。
- 「この奥に行くのか?この奥に何があるんだ!?」
- とうとう爆発したらしい。知らないにもほどがある。俺は何も知らないまま、ここにつれてこられ、そしてまたこの森の奥へと誘われようとしているのだ。
- 「行けばわかります。もうあまり時間がありませんので」
- それだけ言うと店主と青年は森の中へ入っていった。俺は仕方なく後を追ったのだった。
《続く》