奈良の休日

宮島美子


 
 「ねえ、近江君。鹿がいるよ、鹿!」

「当たり前だろ。ここは奈良公園なんだから……って、おい、扇」

 近江が気づいたときには、もう舞子は、子鹿に向かって駆け出していた。ポニーテールが揺れる舞子の後姿をゆっくり追いかけながら、近江は舞子と二人で一日過ごすことのできる幸せをつくづく噛み締めていた。

 こんな機会は本当に滅多にないのだ。うまく翔子を連れ出してくれた剣持に感謝している。もっとも彼には別の思惑があるのかもしれないが…。

 子鹿を追いかけていた舞子は、驚いた子鹿に一目散に逃げられ、がっかりした表情で近江を振り返った。

「近江君。だめだよ、逃げちゃうよ」

「子供はだめだな……大人になれば鹿も愛想が良くなるんだけど……。鹿せんべいでも買ってみるか?」

「うん!」

 嬉しそうに頷いた舞子は早速、公園内の鹿せんべい屋に駆け寄っていく。鹿せんべいを買っている舞子の横に並んで、近江は奈良人なら常識であるところの、鹿せんべいを買うときの諸注意を述べようとした……が、それは既に遅かったようだった。

「ぎゃー、なんなの、こいつはー」

 舞子と近江の間に突如として割り込んできて、舞子を襲おうとしている大きな影があった。舞子は思わず身構えている。角を持つ大鹿だった。

「今言おうと思ってたんだが……」

「何を?」

 鹿から我が身をかばいながら、舞子が問い掛けてくる。

 近江は舞子の持つ鹿せんべいを指差して、忠告してやる。

「それを持っていると、鹿が襲ってくるぞってな」

「それを早く言ってよー」

「全部、鹿にやってしまえばいいんだよ」

「そんなのー。子鹿ちゃんにあげたいのに、やだ」

 そういうと舞子は群がってくる大鹿の間をすり抜けて、さっき目を付けていた子鹿の方へ駆け出していく。臆病な子鹿も、舞子の持つ鹿せんべいを見ると、逃げ出しはしないのだが、それでもびくびくと様子をうかがっている。せんべいは欲しいけど、人は怖い……そんなところだろうか。子鹿の様子がなんとなく昔の近江を思い出させるようで、近江はかすかに首を横に振った。

 舞子は、せんべいを子鹿にやろうとしては、割り込んでくる大人の鹿に取られ、四苦八苦していたが、やがてあきらめたようで、近江のところに戻ってきた。そんな子供のような舞子のしぐさが、近江の目には何より可愛く映った。

「なあ、扇。そろそろ夕方だからさ、鹿苑に鹿が帰っていくぜ」

「何、その鹿苑って」

「鹿のねぐらだよ。春日大社の隣にあるんだ」

「へー、行ってみたいなぁ。あ、でも、今日は近江君が是非って、案内してくれるところがあるんだったよね」

「その近所だよ」

 そういうと、近江は舞子を促して、春日大社の方へ歩き出した。周りの鹿たちも、舞子と近江の歩みにあわせて歩き出しているように感じた。

「鹿は夕方になったら家に帰っていくんだね」

「昼は観光客に鹿せんべいを買わせて、食事をするのが鹿の仕事なのさ。鹿せんべいの売上で鹿苑を維持しているらしいから、よくできたシステムだよなあ」

「頑張っているじゃないの、鹿さんもさ」

「お前も貢献したし…な、扇」

 そういってからかうと、舞子は少しふくれた後、いつもの笑顔を見せた。飾り気のない、明るい笑顔。それは舞子そのものだった。舞子の笑顔を見るとき、近江はいつも、不思議に暖かな気分になる。そして自分にない特質を多分に持つ舞子に、憧れにも似た気持ちを感じてしまう。人間としての優しさ、強さ、そしておおらかで素直な心を、ごく自然に持つ舞子に近江が惹かれるのも、当たり前のことだったのかもしれない。

 鹿のねぐらである鹿苑を右手に見て、それから近江は山手に歩き始めた。鹿苑を興味深げに見ていた舞子もおとなしくついてくる。

「もう少しでつくよ」

「どこに連れてってくれるの?美味しいものがあるとこだといいな」

 期待を込めた面持ちで、舞子は近江を見つめてくる。その視線がなんとなくまぶしくて、思わず近江は目を逸らしてしまった。

 それに、目的のものが食べ物ではなく、景色だと知ったら、舞子は落胆してしまうかもしれないなあ……。うーん……。考え込んでしまう近江だった。

 そんな近江の心中など知る由もなく、ごきげんであたりを見回しながらついてくる舞子の無邪気な様子に、ま、いいか、と近江は思い直した。

 俺は、扇にあれを見せたいだけなんだ。奈良で一番美しいもの…俺が一番好きなあの景色をこいつと一緒に見たい。……あとで食事はちゃんとするんだし、いいじゃないか……。

 しばらく若草山の山麓を登ると、山の斜面に張り出すように建物が建っている。下から見上げると、かなりの迫力である。この建物が、今日の近江の目的地だった。

「ついたぞ、扇」

「これって…お寺なの?」

「東大寺の建物の一つだよ。二月堂というんだ」

「ふーん……」

 不思議そうな顔をしながらも、舞子は二月堂の階段を登る近江の後ろについて、石段を一段ずつ上がっていく。

「ねえ、近江君。見せたいものってここのこと?」

「まあ…ね。…正確には、ここから見る景色なんだけど、さ」

 そういって、近江は舞子を回廊の前に進ませる。一番斜面に張り出した最前に立って、近江は舞子と並んで眼下に広がる景色を見る。二月堂から見る奈良の町は、近江にとっても本当に久しぶりだった。

「このお堂は西を向いているんだ。今は少し早いけどな」

「何に早いの?……あ、近江君。下に見えるのは大仏さんがいるところ?」

「そう。大仏殿と、その向こうが正倉院だな」

「でも、ここって…不思議なところだねぇ。すごく懐かしいような、優しいような、そんな気分になる……」

 そういって眼下一面に広がる奈良市街と低い山の連なりを見るともなしに見る、舞子の夢見がちな目を、近江は新鮮な気持ちで見ていた。

「大和は、くにのまほろば……、っていうくらいだから、な」

「奈良って、本当に昔の都なんだなぁ。ここにいたら特にそう思うよ。近江君。ここが近江君の好きな場所なんだね。だから私に見せてくれたんだね」

 思わずドキッとするような台詞を言いながら、近江に笑いかけてくる舞子は、近江にとってはどんな女性よりも綺麗に見えた。もちろん、舞子のことばに深い意味など皆無であることは、よく知っている。

「なぁ、俺、お前に言いたいことがあったんだよ」

 意を決して近江が口火を切ったとき、辺りがだんだんと紅く染まり始めてきた。

「わぁ、夕焼けだぁ」

 西に沈みかけている大きな夕陽が、奈良の町を紅く照らす。大和盆地を囲む低い山々は、夕陽をバックに奈良の町を縁取っている。綿あめのように浮かんだ雲は、そのすき間からまっすぐに伸びる夕陽の筋を若草山に運び、灰色や紫色に色を変えながら、夕焼け空を彩っていた。

「綺麗だね……綺麗ってことばでは言い尽くせないくらい……」

 感動をたたえた面持ちで、舞子は二月堂の回廊の手すりにもたれて夕焼けを見ていた。

「ねぇ、さっき近江君、何か言いかけたよね。何だったの?」

 夕陽に照らされながら、舞子が近江の顔を覗き込む。まだ感動の余韻をたたえた舞子の顔を見ているうち、近江は自分の想いを舞子に押し付けるよりも、もっと大切なことがあることに気づいた。

「いや、…たいしたことじゃなかったと思う」

「そう?」

「ああ、……二月堂の夕焼け、気に入ったか?」

 話をそらして、近江は答えのわかっている質問を舞子に問い掛ける。

 舞子は満面の笑顔で近江に応えてくれた。それだけで十分な気がした。

 いつか……いつか、言いたいことがあるんだ。でもそれは、今は言わない。今は友達でいい。友達のままでお前にしてやれることも、きっとあると思う。それでいいんだよな……。

そして、俺がもっと強くなって、お前の笑顔をずっと守れる自信がついたら、そうしたら、またここに二人で来よう、舞子。そのときは必ず言うから……。

「さぁて、なんか美味いもんでも食いにいくか!」

「やったー。何にしよっかなあ。あ、もちろん、近江君のおごりだよねっ」

「え……」

「さー、いこいこ」

 舞子は嬉しそうに近江の左手を引っ張って、歩き出す。そんな舞子に苦笑しながら、おとなしく連行されていく近江だった。

 夕焼けは次第に薄闇の中へと消えていった。