大きな桜の木の下で、翔子は風に吹かれていた。満開の花は、なぜか散っても散っても次々に花開く。
幹にもたれた彼女の斜め前には、背の高い厚化粧の女が一人。ゆったりした古めかしい服をまとった女の、白く塗られた顔の中で紅を差した唇が動く。
「綺麗よのう……京の都を思い出す。妾の母上も、桜がお好きであられてな」
「そうなの。なら、春にはお花見をした?」
「もちろんじゃ。母上の膝に抱かれて、桜を見上げた。今も忘れはせぬよ」
笑った女の静かな佇まいを、翔子は黙って眺めた。目の前にいる友人の心が凪いでいるのが伝わってきて、それが自分にも安堵をもたらす。父母と過ごした、無邪気な幼い日を懐かしむ女の想いが、不思議なほどに共感できる。幾百年の時を間に隔てているはずの友人と語り合うことに、何一つ違和感を感じない。それは、さほど不思議でもなかった。
「そうね。あたしも、舞ちゃんやお母さんと、お花見に行ったときのこと覚えてるわ」
「おお、あの力強い妹君か。そなたとは双子であったな」
「うん。舞ちゃんって沢山食べるから、お母さんはお弁当の支度が大変だったみたいだけどね」
「そうであろうよ」
女は笑って頷いた。
「あれだけの力の持ち主が、十分な食事を取らずにはおれぬであろうて。しかし人とは変わらぬな。千年たっても、花には宴がつきものか。」
「それは確かよ。お花見には、美味しいお弁当とお酒がなくちゃね。大勢で食べて飲んで騒ぐから、楽しいんじゃないかしら」
舞子が笑って答えたとき、女がふと木の向こう側を見た。
「おや。そなたが呼ぶゆえ、また客が現れたぞ」
「え?」
振り向いた翔子の目に、草原を歩いてくる影が見えた。一人はすらっとした10代後半の少年で、バイクブーツが草をかき分けている。横に並んだ少女は、見たところ10歳前後だが、瞳の色はどことなく老成した光を放っていた。その後ろには、神主姿の男がついてきている。その男が弁当と思しき重箱を抱えているのを見て、翔子は失笑した。
「ホントだ。なあに、食べ物持参なわけ?珍しいわね、魅冬が気を遣うなんて」
「家主へ家賃の支払いだと思えばよかろう。妾たちが花見をすることのできる場所など、そうはないのじゃ。そなたの機嫌を損ねて、追い出されたくはあるまいて」
女の言葉に、翔子は困ったように目を伏せた。
「そんなことしないわよ。貴方にも、皆にも、ここでしか会えないのに。……大霊の、ワニ」
女は、ふわりと笑った。
「優しい娘よの、そなたは。良い母になろうよ。あの髪長い陰陽師は果報者じゃ」
「からかわないの」
返した翔子の前に、魅冬たち三人が足を止める。
「こんにちは、翔子さん。お邪魔して良かったかしら?」
「もちろんよ。魅冬、冬樹。それに神宮寺さん」
にっこり答えてやると、魅冬は嬉しそうに微笑んだ。
「神宮寺。冬樹さん。宴会の支度をしてちょうだい」
『はい。魅冬様』
相変わらず使われているらしい、男2人の声がハモる。敷物が敷かれ、弁当が広げられ、酒が注がれる。翔子も、ここでは飲むのを遠慮したりしない。神宮寺が大霊のワニと歴史談義をするのに翔子が聞き入っていると、魅冬が袖を引いた。
「翔子さん。退屈?」
「いえ、そんなことないわよ」
「でも黙っているから。そうだわ、冬樹さん。何か芸をして」
翔子はブ、と吹いたが、気の毒な冬樹はあくまで忠実だった。
「はい、魅冬様」
無理しなくても、と言いかけた翔子の前で、冬樹が立ち上がり、直立不動の体勢で口を開いた。……彼の口から流れ出てきたメロディは。かの名曲、『泳げ、たいやきくん』だった。
脱力した翔子と、物珍しそうに耳を傾けている大霊のワニ、そして次に自分が歌う歌を一生懸命考えているらしい神宮寺。いつの間にか冬樹の手にはマイクが握られているが、それも自分が創ったものだと思うとツッコミもいれられない。
「素敵よ、冬樹さん」
魅冬は、けらけらと笑い声を立てている。ため息をついた翔子の膝に、魅冬がもたれて来た。
「ふふふ。ああ、笑いすぎてお腹が痛いわ。翔子さん」
「……あたしもよ」
翔子は、魅冬の頭をなでてやった。魅冬の顔が、わずかにあどけない表情を浮かべる。今では翔子も知っている。彼女の目の前で、姉は汚され殺されたという。惨い光景に衝撃を受けた幼い心を邪念の塊につけこまれ、いつか取り込まれて、運命を狂わせていった魅冬。そして翔子が何よりも切なく感じるのは、魅冬が呪木子に憑かれなければ冬樹との出会いと絆はありえなかった、と考えることだった。冬樹は魅冬に救われたと言った。愛していると言った。ならば彼は、決して魅冬との出会いを否定するまい。それは、魅冬の姉の死も肯定することだ。剣様のために殺された沢山の人々の死もまた、必然であったことになる。その中には、翔子と同じ学校の生徒さえ含まれている。10代の若さで死んだ同級生のことを考えると、魅冬や冬樹に寄せる共感に後ろめたさを感じて、翔子は軽く唇をかんだ。
「……何ぞ思い悩んでいやるか」
大霊のワニの声に、翔子は正気に返った。魅冬は、もう膝の上で寝息を立てている。
「……あたし、変だね。何考えてるのかな」
強いて笑った翔子の頭を、ワニが姉のような暖かさで撫でた。
「若いの、そなたは。このものたちを救えぬことが、気にかかるか」
翔子は答えずに俯いた。ワニの手は、翔子の髪を撫で続けている。
「救うておるよ。そなたが招いてくれるゆえ、妾も彼らも、こうして花見をして酒が飲める。歌を歌い語りおうて時を過ごすことができる。本当に、有難きことよ」
翔子は黙って頭を垂れていた。いつか歌いやんでいた冬樹が、魅冬の体をそっと膝から引き取って抱く。胡坐をかいた神宮寺が、黙って自分の杯に酒を注ぐ。風が駆け抜け、桜の花はやはり咲き続け、散り続けている。抜けるように青い空の下で、なおも花見の宴は続く。
―――――――ベルの音で、翔子は目覚めた。
「おはよ、翔ちゃん」
舞子が覗き込んでくる。
「大丈夫?何か夢でも見た?笑いながら泣いてたよ、翔ちゃん」
「……うん。おはよう、舞ちゃん」
翔子は、涙をぬぐいながら答えた。
時々、夢に現れる『友達』。もう、夢でしか会えない人たち。翔子の夢には、沢山の人がやってくる。夢か現かも判然としない。真実、彼らの霊なのか、それとも翔子の幻想なのかも分からない。それでも、彼らは時おりやってくる。祖母や剣持に相談すれば何とかしてくれるのかもしれないが、翔子は告げないままでいた。自分の夢が、もし本当に、彼らに一時の居場所を提供できるというのなら。命続く限り、その役目を務めたいとさえ思う。彼らに現世での温もりと幸福を返してやることは、叶わなくとも―――――
「翔ちゃん?」
やや心配そうに重ねた舞子を、翔子は抱きしめた。
「……舞ちゃん。あたしより先に、死なないでね」
舞子がびっくりした顔になるが、翔子は構わずに力を込めた。
「舞ちゃんは、現実であたしの側にいてね。あたし、舞ちゃんの夢は見たくない」
だいぶ端折った翔子の発言にも、舞子はさほど困惑の色も見せずに、力強く頷いた。
「……大丈夫だよ、翔ちゃん。あたしは、そう簡単に死なないよ」
「うん。……うん……」
拭ったはずの涙が、また頬を濡らした。