マタニティ

りん


俺と舞子が一緒に暮らしはじめて数年、道場の運営も軌道に乗り無事結婚式も挙げることができた。

同じ時期に結婚した翔子ともかわらず仲が良く、家族に縁が薄かった俺は自分の置かれている環境が夢じゃないかと思うときがたまにある。

そして今回、人生の一大イベントである子どもの誕生を2ヶ月後に控えて日に日に大きくなる舞子のお腹に幸せを感じていた。

本家でも跡を継いだ翔子がこれまた同じ時期に宿した子どもの誕生を待ちわびていた。
同じ時期に子どもに恵まれたのは偶然ではない。出産により何年も教主が務めを休むわけにいかないので扇家で話し合い家族計画をたてたのだ。

プレッシャーはあったが元々夫婦仲は良かったのであっという間に子どもができた。俺は期待された役目をひとつ終えて正直ほっとした。

赤ちゃんを宿すということは想像以上に大変らしい。
毎日3杯飯だった舞子が食欲をなくし悪阻に悩まされたのには驚いた。
加えて身体を動かすことが大好きな舞子にとって妊婦らしい生活というものは我慢の連続のようだ。

ある日、ついにそれは爆発した。

産休中の舞子の代わりに1人で道場を切り盛りしていた俺はいつも通り子ども達の鍛練を終えて自宅に戻った。

自宅は舞子の実家の裏に建てた小さな3LDK。まあ、俺の経済力ではこれでも贅沢な方だ。

玄関を開けると奥のリビングで大きな音がした。
舞子が転倒でもしたんじないかと思い、急いでドアを開ける…そこには雑誌や舞子のマグカップ、洗濯物が散乱していた。そして茫然と座り込む舞子の姿…。

「どうしたんだよ、何かあったのか!?」

俺が駆け寄ると舞子は大きな声をあげて泣き出した。

「もうやだよ〜!!赤ちゃん出来てからご飯は食べられないし、お腹が大きくなったら動きにくいし…近江君との組手だってずっとしてないし…。」

舞子はたまりにたまった不満を一気に吐き出した。

「仕方ないだろう、妊婦なんだから。今は我慢するしかないよ。」

俺は必死に舞子をなだめた。しかし焼け石に水、舞子の怒りはおさまらない。

「近江君はいいよ。なんにも変わらないじゃん!!あたしばっかり…あたしばっかり大変な思いしてるんだよ!?もう我慢できない!!」

舞子は手元にあったマタニティ雑誌を俺に投げつけた。俺は雑誌をかわすとため息をついた。

「しょうがないだろ?代わりに俺が産めればいいけどそうもいかないんだし…あと少しの我慢だよ。な?」

舞子は俯いて鼻をすする。しばらく泣いていたが急に顔をあげて俺を見つめた。

「じゃあ、あたしと代わってよ!!」

「へ?」

意味が良く理解できない俺をよそに舞子は呟いた。

「カルラ天地の書合一、変幻。」

その瞬間。
俺の魂は体から引きずり出され舞子のそれと入れ替わった。

急に重くなる身体、胸のムカつきが酷く苦しい。
何度か舞子と変幻したことはあったがこんなに体調が悪いのは初めてだ。

俺が言葉をなくし呆然としていると、俺の身体に入った舞子は立ち上がり背中を向けた。

「あたしちょっと体動かしてくるから…。」

舞子がリビングを出ていくと俺は暗い部屋に1人取り残された。

俺は暫くそのまま座り込んでいたがこうしていても仕方ない、と散らかった部屋を片付けようと立ち上がった。

「うわっ!!」

前にせり出したお腹のせいでひどく体のバランスが悪い。転びそうになってソファにしがみつく。

腰も足も痛くて重い…まるで重りをつけているかのようだ。

加えて足元の物を拾おうと屈むが腹に遮られ一向に手が届かない。無理に屈むと吐きそうになる。

「妊婦ってこんなに大変なんだ…。」

俺はそう呟くと吐き気と倦怠感をこらえながらやっとの思いで部屋を片付けた。

元の体なら何でもない動作が物凄い重労働に感じ、さっき舞子に「我慢しろ」といった自分がどれ程浅はかだったか思い知る。

ふと舞子が投げつけた雑誌を手に取ると出産の流れを図解した記事が目に留まった。

舞子の字で色々書き込みされている…呼吸の仕方、陣痛の和らげ方、授乳の仕方…舞子は初めての出産に熱心に調べていたのだ。

俺は愕然とした。
女性にとって妊娠〜出産というのはとても大変な事なのだ。男の俺が仕方ないとか我慢しろとか言えるものではないのだ。
なんだか1人浮かれていた自分が情けなくなり瞼に舞子の泣き顔が浮かんだ。

「…近江君…。」

後ろで舞子が立っていた。
俺は振り返ろうと顔を上げた…その時、舞子は自分の身体に入った俺を後ろから抱き締めた。
俺は自分の身体に抱き締められ、腕の中にすっぽり入る舞子の身体に驚いた。

「舞子…ごめん、俺…。」

俺が言葉を言いかけると舞子はブンブンと首を振って言った。

「あたしこそごめんなさい…。自分ばっかり辛いみたいに責めたりして…近江君だってあたしの分も道場切り盛りしてくれてて大変なのに…。」

首筋に涙が伝う。

「お腹にいるのはあたしと近江君の大切な赤ちゃんなのに…。」

俺も首を振った。

「舞子の身体に入ってみて初めて分かった。赤ちゃんを宿すってすごい大変なんだな…。」

「近江君…。」

「俺は幸せだよ…舞子がこんなに辛い思いしてまでも俺の子どもを産んでくれる…俺はすごい幸せだよ。」

俺達は暫くそのまま抱き合っていた。
ここ数ヵ月、互いの間にあった感覚の違いが打ち解けたのを感じた

「ね、近江君。手を貸して…。」

舞子はその手を膨らんだお腹に当てた。トクトクと響く小さな鼓動…お腹の中で何かがコロンと動いた。

「なっ!!なんだ!?」

俺は生まれて初めての妙な感触に飛び上がった。

「胎動だよ。赤ちゃん、すごい元気だから良く動くんだ。」

舞子はクスクスと笑いながら囁いた。

「これはこの子の命の証。そしてあたしと世界で一番愛している人の愛の証。あたしもすごい幸せだよ。」

舞子は抱き締める腕にさらに力を込めた。

「変幻、解くね…。」

俺達はもとの体に魂が戻り顔を見合わせて笑った。

おそらく俺は世界一の幸せ者だ。
愛する人が俺の子どもを宿し、そして産んでくれる。

「近江君、愛してる。」

俺の腕の中に顔を埋めたこの愛する人とこれから生まれてくる2人の愛の証を命をかけて守っていこう。
それが父親としての俺の役目だから。

(終)