りん |
ある晴れた日、俺はいつも通り住み込みの鍼灸院を手伝っていた。 「なんだい、兄ちゃん。今日は顔色が悪いなあ。」 常連の源さんにそう言われ「大丈夫です」と答えたものの、俺は昨日から続く鈍い腹の痛みに表情を歪めた。 「近江君、ちょっと。」 俺はこの鍼灸院の主である剣持さんに呼ばれた。 「ここに横になってみてください。」 剣持さんに促され用意された布団の上に身体を横たえた。 「あつっ…。」 不意に触られた腹部の痛みに俺は更に顔を歪めた。 「うーん、これは医者にかからなければならないですねぇ。今日はお仕事はもういいですからお医者さんに行ってきてください。」 剣持さんの言葉に痛みを堪えながら俺は「大丈夫です」と答えたが、逆らえるはずもなくお春さんに呼んでもらったタクシーで近くの病院へ向かった。 ※ 「でも早めに見つかって良かったね。」 舞子は病院のベッドに横になっている俺を見て安心したように笑った。 結局俺は急性盲腸炎ということであのまま入院になり、それを知った舞子が見舞いに来てくれたというわけだ。 「まあな…。」 なんだか病魔に屈したということで少し情けなく思っていた俺は舞子の言葉を素直に聞けないでいた。 「もう、近江くんは我慢強すぎ。お腹痛かったらちゃんと休まなくちゃダメだよ。」 まるで子どもをあやすようにたしなめる舞子の言葉に、拗ねている自分がちょっぴりバツ悪かった。 「そうだな…。」 術後の痛みを堪えながらゆっくり身体を起こすと舞子はその背中に手を添え支えてくれた。 長い睫毛、仄かに薫るシャンプーの馨り、柔らかそうな唇…俺は思わず舞子の頬に手を伸ばしていた。 「近江君?」 その手に気がついた舞子はこちらに視線を移す。 「舞子…。」 俺の手が舞子の頬に触れる。 「近江君…どうしたの…?病院だよ…誰かに見られたら…。」 頬を赤く染め目を伏せる舞子に俺は囁いた。 「個室だから…誰も来ないよ…。」 俺は舞子の身体をグッと抱き寄せベッドの上に座らせた。 「でも…。」 戸惑う舞子を無視してゆっくり自分の顔を近づける…舞子も俺の意図するところがわかったのか顔を上げ目を閉じた。 「池田さ〜ん、検温で〜す。」 病院の看護師がドアを開けた。 「はっ、はいっ!!」 飛び上がるようにお互いの身体を離した俺達は、先程まで何をしようとしていたか一目瞭然。 「あらあら、お邪魔だったかしら。」 ベテラン風の看護師はクスクスと笑いながら病室に入ってきた。 看護師はテキパキと検温や血圧測定を済ます。 「入浴は明日からオッケーですので今日は清拭になります…そうね、彼女にしてもらった方がいいかな?」 看護師は舞子の方を見ながら笑顔で言った。 「はい!!あたし手伝います!!」 あまりの元気のよさに圧倒された看護師だったが、すぐに笑顔でこれから用意してくるといい病室をあとにした。 「そんな、いいのに…重病人でもあるまいし…。」 俺は照れ隠しで呟いた。 「いいの。こういう時はちゃんと看病したいの。」 舞子は笑顔で俺を見た。 ※ 舞子は用意されたタオルを手にベッドの上に座った。 「はい!!背中拭いてあげるから病衣脱いで!!」 舞子に促され病衣を脱いだ俺はなんだか無性に恥ずかしかった。 「熱かったら言ってね。」 舞子は優しく背中を拭き始めた。添えられた手がなんだかくすぐったい。 「痛くない?大丈夫?」 「うん。気持ちいいよ。」 俺は珍しく素直に答えた。 舞子は背中を拭き終わると今度は正面に腰掛けた。 「えっ…前は自分で拭けるよ!!」 慌てる俺をよそに舞子は拭き始めた。 タオルから立ち上る湯気は爽やかな石鹸の香がした。舞子のしなやかな指先の感触と石鹸の香、俺は至極の時を過ごしているような感覚になった。 「どうしたの?」 会話が途切れたからか、ふいに舞子は顔を上げた。 「なんだよ。」 照れ隠しに膨れてみる。 「だってなんだか幸せだな〜って思ったから…こうして一緒にいるとあたしすっごい幸せなんだ。」 舞子の言葉に俺は胸がキュッと締め付けられた。 「俺も幸せだよ…」 俺は無意識にほころぶ表情を隠すことなく呟いた。 上半身を拭き終わった舞子は新しいタオルを絞りながら顔を上げた。 「次はどこを拭こうか。」 俺はふと自身の下半身に目をやり、先程の幸福感に敏感に反応している花咲ける青少年を慌てて押さえ込んだ。 「いや…その…ココは自分でデキマス…。」 舞子も気がついたのか耳まで真っ赤にしながら慌ててタオルを桶の中に落とした。 「あ、あ、あ、そうだねっ…じゃああたし売店で何か買ってくるよ、お昼一緒に食べよっ。い…行ってくるね!!」 舞子は慌てて財布を手に病室を飛び出した。 ※ 結局俺は舞子が売店に行っている間に清拭を済ませ着替えることに成功した。 舞子は売店で大量の食べ物を仕入れ、それをペロリと食べあげた後も夕方までいてくれた。 「今日はありがとな…。」 俺は帰りの支度をする舞子においでおいでをしながら言った。 「ね、退院したらお祝いしようよ。何か欲しいものある?」 舞子の言葉に俺は考える。…俺の欲しいもの…お前が欲しい…。 「あ、そうだ。忘れてた。錦織さんからお見舞いを預かってきたんだ。」 舞子は鞄から封筒を取り出した。 「まさか仕事の資料とかじゃないだろうな…。」 俺は苦笑いした。 「え〜、まさか〜。でもあたし開けちゃダメって言われて見てないからわかんないけどね〜。」 封筒の口を開けてそっと中を覗くと…そこには 「ブフッ!?」 思わず吹き出す俺を舞子は不思議そうに見つめていた。 「じゃあ、あたしからもお見舞い。早く退院できるようにおまじないしてあげる!!」 「おまじない?一二三呪文か?」 「いいからいいから、目を瞑って!!」 舞子の言葉に俺は素直にしたがった。 少しの沈黙…俺は自分の唇に柔らかいものが触れる感触で目を開けた。 ほんの数秒であったが俺はすごく長い時間のように感じられた。 「じゃあ、またねっ!!」 顔を真っ赤にしながら手を振って病室をあとにした。 まだ残る舞子の唇の感触に俺はぼんやりとそれを見送るしかできなかった。 「おまじない…か…。」 俺は自然に込み上げてくる笑いを堪えながら窓の外を見る…たまには病気するのも悪くないな…そう思った。 因みに錦織さんからのお見舞いの品はこれから長きにわたり俺の宝物となるのだった。 (終) |