潮騒

りん


打ち寄せる波の音があたしにそう言った様な気がしたの…。

「近江君、こっちこっち〜!!」

舞子はカラフルなパラソルの下で手を振った。

「悪い、遅くなって。」

近江はパラソルの中の舞子と翔子に声をかけた。

「あれ、白妙は?」

辺りを見回しながら呟く近江…翔子は少し照れ臭そうに笑った。

「私が泳げないって知ってウキワを買いに行ったの…。」

今日は一時帰国した白妙を誘って海に遊びに来たのだった。
落ち着いてるように見えて意外と翔子も慌てていたらしい。命綱ともいえるウキワを忘れてきたのだから。

それに気がついた白妙は一緒に海にはいるべくウキワを買いに近くの海の家まで向かったのだ。

「アイサレテマスネ。」

舞子は悪戯っぽく囁く。翔子は否定するわけでもなくただにこやかに座っていた。

難病を抱えた白妙は治療の成果で普通に暮らすことはできるようになってきた。しかし根治というのは難しく、それが2人の間に暗い影を落としているのだった。

「お待たせ。」

白妙は手に大きなウキワを抱えて戻ってきた。
数ヵ月前に空港で別れた時よりずいぶん顔色がいい。

「久しぶりだな。」

近江と白妙は互いの無事を確認してるようだった。

「ね、近江君泳ぎに行こう!!」

舞子はそう言うと羽織っていた上着を脱いだ。
健康的な肌に明るいオレンジのビキニが映える。

「近江君?」

舞子は近江の顔を覗き込んだ。どうやら舞子の水着姿に見とれていたらしい。

「あ…ああ、行くか。」

近江は誤魔化すように髪をかきあげ視線を海に移した。

子どものようにじゃれあいながら海へ向かう2人を見て白妙は呟いた。

「あの2人…変わらないな。」

シートの上に腰かけた白妙に翔子は答える。

「あら、少しは進展したみたいよ。まあ、相手が舞ちゃんだからこれからも手こずりそうだけどね。」

「全くだ。」

2人は顔を見合わせて笑った。

穏やかな時間が流れる。
どれくらい望んだだろう…離れているときは距離がもどかしく、危険な場面にも駆けつけられない自分を責めた。
またどうしても越えられない病という壁を恨んだりもした。

しかしこうしているとそんなことはどうでもいいような気がしてくるから不思議だ。

「いつまで日本にいられるの?」

翔子は訊ねる。

「外出許可は1週間だからな、来週には戻らなきゃいけない。」

白妙は少し寂しそうな顔で答えた。

「そう…。」

2人の会話が途切れた。
波の音と海水浴客の歓声が響く。

「聖の墳墓にも参りたいと思ってる…こうして生きているのは聖のおかげだからな。」

白妙は目を伏せる。
自分の母親の裏切りで命を落とした恩人…白妙の体の中には聖から受けたヒーリングの気がまだ残っていた。

「姫も一緒に来てくれないか…。」

白妙は翔子を見た。

「私も…?」

白妙は翔子の目をじっと見つめながら続けた。

「情けない話だが俺はまだあの事件を受け入れていない…。聖の事だけじゃない、母さんの事も…。」

白妙の母親が裏切ったのは息子の身体を治したかったから…愛情が誤った結果を生んだ…彼はまだそれを受け止めきれていなかった。

「わ…私…。」

翔子は白妙の気持ちは痛いほどわかった…何故ならその場にいたから。

「返事は今じゃなくていい、考えてみてくれ。」

答えに困っている翔子に白妙は優しく言った。

「ね、近江君。あそこの岩まで競争しない?」

舞子は沖合いに顔を出す岩を指差した。

「遠いんじゃないか?」

近江は海面の照り返しに目を細めた。

「大丈夫だよ。用意、スタート!!」

舞子はそう言うと泳ぎ始める。

「待てよ!!」

近江もそれに続いた。

水飛沫をあげながら泳ぐその姿はまるで人魚のようだ…近江はその美しい魚が逃げてしまわないように必死に追いかけた。

「ぷは〜!!負けたぁ!!」

タッチの差で近江は舞子より先に岩についた。
ちょっぴり悔しそうな舞子の表情に近江は微笑んだ。

2人で登るには少し岩が狭かったが並んで腰掛け一息ついた。

「翔ちゃん、白妙に会えて嬉しそうだったね。」

そんな姉の姿を思いだし舞子も嬉しそうに言う。

「そうだな。」

近江は舞子を見ながら頷いた。

「あたしは近江君に会いたくなったら会いに行ける距離にいるけど、翔ちゃんは違う…なんだか双子なのに不公平な気がして…。」

舞子の足が水面を蹴った。水飛沫がキラキラと輝く。

「だから毎日、早く白妙が治って日本に帰れます様にって祈ってるの。」

近江は黙って聞いていた。

「あたし、近江君が傍にいてくれること感謝しなくちゃ。当たり前なんて思ったらバチが当たっちゃうよ。」

舞子は笑顔で近江を見た。その顔は眩しくそして温かかった。

「俺もそう思うよ。だけど時々怖くなる…俺が舞子の傍にいることが本当に許されるのか…。」

近江の心には消えない闇がある。それも共に受け入れていく決意をした舞子だったが、時折見せる近江の苦悩の表情に自分の力不足を感じていた。

「近江君じゃなきゃダメ…ダメなの!!」

舞子は近江の腕にしがみつく。

「ありがとう…。」

近江は舞子の頭に頬を寄せて目を閉じた。

砂浜から離れたこの場所には喧騒は届かない。波の音が響き心地よい時間が流れた。
不意に舞子の目から涙が零れた。それは近江の腕を伝い日に焼けた岩に染み込んだ。

「どうした?」

近江は目を開けた。

「ううん、なんでもない。ただ…。」

「ただ?」

舞子は近江の腕を握る力を一層強めてしがみつき呟いた。

「波があたしにこの手を離さない様にって言った気がして…。」

舞子の言葉に近江は再び目を閉じた。

「俺の方こそずっとお前の傍にいたい…。」

2人は寄り添い静かな時を過ごした。

「もう夕方だね。1日早いや。」

舞子は夕焼けの空を見上げた。翔子もあっという間に過ぎた楽しい時間を惜しむ。

(また白妙と離ればなれになってしまう…)

胸の奥が痛む。
アメリカに行って欲しくない、行くなら私も一緒についていきたい…しかし教主という立場上それは許されない。
ひどいジレンマに苦しくなった。

「ね、翔ちゃん。あたし近江君を見送りに行ってくるから白妙と待っててね。」

舞子は一足先に帰る近江と一緒にバイクの停めてある駐車場へ向かった。
恋し始めたばかりの妹の後ろ姿を微笑ましく思うと同時に羨ましいと思う気持ちもあった。
手を伸ばせば届く距離に愛しい人がいる…自分には叶わぬ夢だ。

以前淡い恋心を抱いた相手も遠く離れた世界…来世へと旅立った。

私は愛する人と離れる運命にあるのだろうか。

翔子は目を閉じ耳を澄ませた。
波の音が聞こえる。時には激しく、時には優しく…まるで自分に諭すように聞こえた。

不意に翔子の目から涙が零れた。

「姫、どうかしたのか?」

白妙が心配そうに顔を覗き込む。

「ううん、大丈夫。ただ…。」

「ただ?」

翔子は白妙の目を見つめて呟いた。

「波が自分に正直になりなさいって言ったように聞こえたの。」

翔子は少しためらいながら続けた。

「聖の所へ…私も一緒に連れていってくれる?」

白妙は翔子の身体を抱き締めると耳元で「ありがとう」と囁いた。
白妙の鼓動が生の証のように聞こえる…翔子は一秒でも長くその音を聞いていたいと切に願った。

打ち寄せる波の音が私にそう言った様な気がしたの…。

(終)