如月の心躍りて華薫るの抄
美神龍気
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- 「舞ちゃーん、何処ー?」
- ある日曜日。全国津々浦々の女の子が気合入れまくって臨む決戦の日の一週間前のその日の午後、翔子は買い物の最後に寄った本屋で姿が見えなくなった双子の妹を探していた。参考書を見ている間に、退屈したのか、見当たらなくなったのだ。
- 「舞ちゃん?」
- 周囲を気にしながら名を呼び、林立する本棚の間の通路を覗いて歩く。と、思いがけないコーナーで舞子のポニーテールに結ばれたピンクのリボンを見付けた。本棚の上にぴょこんと突き出している。
- (あら、舞ちゃんたら……)
- 翔子は、その真剣な様子に声をかけるのを思い止まってしまう。
- 舞子が立ち読みしていたのは料理書のコーナー、そして物色していたのは。
- 「まーいちゃーん、なーにお菓子の本なんて読んでんのかしらー?」
- 「ひぃっ、し、しーちゃんんん?!」
- しゃっくりをしたようにえらく引き攣った声で舞子は振り向き、手にしていた本を取り落とす。
- 怨霊と対峙するときだってこんな顔はしないのではないかと思ってしまう程だ。
- 「…何よ、そんなに驚いた顔して」
- 「だだだだって、い、いきなり声かけるんだもん」
- 「それにしたって、そんなに慌てることないじゃないの。珍しくお菓子作りの本なんて見てたからって」
- 「こっ、これは別に……ほら、バレンタインが近いから………じゃなくて!」
- 「じゃなくて?」
- 「……………ふえぇぇぇぇ」
- 見事に墓穴を掘って情けない声を上げる妹の頭をよしよしと撫でてやりながら、翔子はいい加減いじめるのをやめにした。
- 「そうね、もうすぐバレンタインだもんね。近江くんに何か作ってあげたいんでしょ?」
- 「……………うん」
- 聞こえないくらい小さくつぶやいて、舞子は頷いてみせた。
- 口をとがらせてささやかな反撃に出る。
- 「翔ちゃんだってさ、剣持さんにプレゼントするんでしょ?」
- 「え? 私は……」
- 「駄目だよ、そんな消極的じゃ。年に一度、堂々と女の子からアプローチ出来る日なんだからさ。確かに剣持さんは老成してるし、チョコなんてガラじゃないかもしれないけど、他の甘いものとか、何ならお酒でもいいしさ……」
- 「そうだね」
- 翔子は綺麗に切り揃えた黒髪をさらりと指でかき上げ、微笑んだ。
- 「その辺何がいいか決めるのは私が手伝うからさ、お菓子作り、教えてよね。私不器用だから自信無くて」
- 「いいわよ。可愛い妹のためだもの。でも、無理して凝ったものを作ろうとしないで簡単なのにしなさいね。手間をかければいいってもんでもないし、手軽に作れても心を込めていれば喜んでもらえるわよ」
- 翔子は、どちらかといえば和食の方が得意なんだけどと思いつつ、快諾して店を出ることを提案した。
- 「さて。それ買ったら、もう帰ろうか」
- 「うん。取り敢えずこれでいいや」
- 舞子も適当に簡単そうなレシピの載った本を手に、二人でレジに向かう。
- 「近江くん、受け取ってくれるかなぁ。何だか、ガラでもないって笑われそう」
- 「そんな野暮なことしないわよ。いくら奥手な彼だって」
- 「そうかなぁ。甘いものは平気かなぁ」
- そして。
- 料理本のコーナーの反対側で、食い入るように本と睨めっこしていた少年は、かしましい姉妹が去ったのを気配で探りつつちらりと視線を上げ、読んでもいなかった本を棚に戻し嘆息した。
- 「………行ったか」
- 偶然会った幸運を喜ぶどころではなかった。
- 二人であんな内容を相談して盛り上がっているところに自分が登場したら間抜けではないか。
- どうにも自分は完全なる幸運からは見放されている気がする。
- と、そこへ穏やかな声がかかる。
- 「どうしたんですか、近江君」
- 「何でもありませんよ」
- げんなりと、現状自分の師匠にあたる声の主−−長身で長髪の鍼灸医を振り仰いだ。
- 彼はお目当ての本を見付けられなかったらしく、手ぶらで近江のそばに立った。正直、あまり隣に立たれたくない。普段はそんな些細なことは気にならないのだが、あの大柄な姉妹と大差無い身長であるため、彼女らより更に上背のあるこの人物と並ぶと、自分が妙に小柄なように感じてしまうのだ。それを今は痛感して嫌だった。つまらない拘わりや強がりといってしまえばそれまでなのだが。
- そんなふうに変なことを気にしているのが自分でも気に入らなくて、日常会話を切り出す。
- 「別の本屋へ行きますか、剣持さん?」
- 「いえ、またの機会に探しますから。今日は早めに帰りましょう。近江君こそいいんですか?」
- 付き合いで本屋に立ち寄っただけの近江は、「はい」と平静を装って先に立って店を出たのだった。
- そう、勝手に期待に踊りだす胸の内を悟られないように。
- **********
- 結局、「初めてでもカンタン! 彼のハートをゲットするバレンタイン必勝レシピ満載・チョコレートとお菓子の本」という寒いタイトルの、ある女性週間誌の増刊号を見付けた翌日、早くも材料を買い揃えて来た舞子は、トレーナーにジーパンという服装の上にエプロンを着け、髪を三角巾で包みキッチンに立っていた。
- ビターチョコレートに食パン、苺にラズベリー、桃缶、パイナップルの缶詰、生クリーム。その他ボウルやら泡立て器やら鍋やらの器具まで完璧に揃え、臨戦体制整ったとばかりに舞子は腕まくりをし、仁王立ちまでして呟く。
- 「……よっし!」
- 翔子にも言われたが、初心者なのだということを考慮して簡単なものを選んだ。
- レシピは何度も読んで頭に入れた。
- 試験勉強はおろか、日常の授業でだってここまで熱心にした覚えは無いというくらい、それこそ何度も。
- 今日はまず練習だ。
- (食パンをハート型に抜いて、生クリームにフルーツを混ぜて、間に挟んで……)
- そう思って初めてみたものの、何だか思ったより順調にいってしまう。
- (溶かしたチョコレートをこれにかけて……っと)
- 念のためコピーしておいたレシピを何度かカンニングしたものの、たいした失敗もせずに進んで行くので、最初は心配そうに覗いていた朝子も千景も感心して見物している。
- 「あらあら、意外とうまくやってるじゃない」
- 親馬鹿丸出しで朝子は満足げだ。
- 「私もなかなかやるでしょ、お母さん」
- 舞子も鼻高々といった微笑みを見せる。
- 「ほら、オーブン使わないから簡単なんだ。味見してみる?」
- 「いいわね……あら、美味しい」
- 「ホント?! あっ、ねえ、おばあちゃんも……って、あれ?」
- 顔を上げると、いつの間にか千景の姿が無い。
- 「面妖な、さすがは元教主……」
- と、舞子が芝居がかった口調で見回すと、いきなり後ろから頭を小突かれた。
- 「誰が面妖じゃ」
- 「あう」
- 素っ頓狂な呻きを上げる舞子だったが、そうしているすきに、またいつの間に戻って来たのか、千景が横から手を出したと思うと、フルーツを混ぜた生クリームを一口、ぱくりとやる。
- 「……ふむ。きっちり人間が食べられる物が出来上がっとるじゃないか」
- 「おばあちゃん! 私が人間が食べられない物を作るとでもおおっっ?!」
- 泣き叫ぶ舞子を尻目に、千景は涼しい顔だ。
- 「これなら、近江のぼうずも安心じゃろうて」
- 硬直。
- 「…………………………………………………はい?」
- 「だから、近江のぼうずにやるんじゃろ?」
- 「……………………………………………………はい」
- 「わしの方もちょいと司坊に用があっての。たまには顔を出すのもよかろうて、呼び付けておいたからの」
- 「……って、いつ?」
- 「今度の月曜じゃ」
- バレンタインデー当日である。
- 「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっっっっ?!」
- 「ちなみに司は遅れて来るそうだから、近江のぼうずだけ先に来るぞ」
- 「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっっっっ?!」
- どこまで分かっているのか、うろたえまくる舞子とは対照的に、千景はあくまでマイペースだった。
- **********
- 「舞ちゃん、しっかり」
- 「う、うん」
- 「そんな顔しないの。練習のも美味しかったけど、本番のだって上手に出来てたわ」
- 「そ、そうかな?」
- 「そうよ。だから大丈夫」
- 「そうだよね。うん、頑張る」
- 「それでこそ舞ちゃんよ」
- 「うん、翔ちゃんも頑張って」
- 昨日から何回繰り返したか分からないそんな問答をまたも玄関先でやらかし、剣持を迎えるために出て行った翔子を見送った舞子は、胸の鼓動を必死に抑えて部屋にいた。
- 翔子の応援や千景の根回しもあって、もうすぐ近江がやって来る。
- 千景が用があるというのは本当らしいが、内容は教えてくれないので本当かどうか怪しいといえば怪しい。
- (そんなことはともかく、もうすぐ近江くんが……)
- と、そこへ呼び鈴が鳴る。
- それこそ飛び上がらんばかりに背筋をぴんと伸ばして、舞子はポニーテールを揺らして廊下に走った。
- 「こりゃ、少し静かにせんか」
- 千景の叱責が飛ぶが、そんなことは耳に入らない。
- 「はーいっ」
- 「こんにちは。お邪魔します」
- 相変わらずこういうときは堅苦しいくらい礼儀正しく近江が頭を下げて入ってきたところへ、ちょうど舞子が駆け出してきた形でご対面である。
- 舞子は慌ててブレーキをかけ、モスグリーンのカーディガンの袷を整えた。
- 「あ、いらっしゃい」
- 「や、やあ」
- 顔を見合わせた途端、お互い妙にぎくしゃくした挨拶となる。
- 「久し振り」
- 近江はコートを脱ぎながらそう言った。
- 「あ、うん……」
- 「で、あの…… 上がってもいいかな」
- 「あっ…… ああ、そうね。どうぞ。おばあちゃんも待ってるから」
- 我ながら声が裏返っている。
- 近江を案内して退室した後も、ドキドキは続いて。
- (あーもう、後で近江くんが帰る前に何て言って呼び止めよう?)
- そうして自分の部屋でうろうろしてどれぐらい経っただろうか。
- (どうしよう。どうしよう。えーと……)
- そうこうしているうちに時計の針は1から8くらいまで回っていたようだ。
- (あっ)
- 舞子は耳をダンボにして廊下に注意を向けた。
- 思ったより早く用事が済んだらしく、近江の声が聞こえてきた。様子を伺ってみれば、何とこちらへ向かって来るではないか。
- (ええぇぇっっ、何で何で?!)
- おろおろしていると、律義に襖をぼんぼんとノック(笑)する音。
- (うわあぁぁ! お、落ち着くのよ、舞子!)
- 飛び上がりそうになりながら自分に言い聞かせる。
- 「……あの、舞…子? いいか?」
- 躊躇いがちに「舞子」と呼んでくるのに、舞子は赤面して熱くなる頬を押さえた。
- (そりゃそうよね。ここん家じゃみんな「扇」だもんね)
- 「…はい、何?」
- 努めて平静を装って襖を開ける。
- 近江はグレーのダッフルコートを小脇に抱え、赤のセーターにキャメルのチノパン姿でそこに立っていた。
- 「あ、いや…… おばあさんが、何か『舞子が用があるらしいぞ』って……」
- (お・ば・あ・ちゃ・ん・た・ら〜〜〜)
- 千景がそこまでお膳立てしていようとは。まぁ、あの「元教主」ならその辺の抜かりは無いだろうが。
- 「あ、そ、そうなのよ。どうぞ」
- 室内に招き入れようと脇に身体をずらす。ふと視線を上げると、近江のそれは自分を通り越して机の上へと注がれている。
- 「……?」
- その視線の先には、念入りにラッピングされた小さな箱が。
- 「あっ……」
- 思わず呟いたまま硬直してしまうが、無理矢理笑顔を作って踵を返すとそれを手に取る。舞子はその瞬間、腹をくくった。
- (ガンバよ、舞子!)
- 大きく深呼吸して振り向く。
- 「はい、これ! バレンタイン!」
- 何とか笑顔をキープしたまま差し出すと、きょとんとした近江は、まじまじと箱を眺めていたと思うと、やがてゆっくりと視線を上げつつそれを受け取った。
- 「ありがとう」
- 舞子の勢いに気圧された感じだったのが、照れた笑いに変わる。
- 「もしかして、手作り?」
- 「えへへ…… うん、一応ね」
- 「今、開けてもいいか?」
- 「えっ、いいけど」
- 何だか、期待通りという感じであまりうろたえない近江がリボンを解き包装を外して箱を開けていくのを見守る。
- (何か、落ち着いてない? 近江くんたら……)
- 落とさないように注意深く開けた箱の中身は、掌に載るくらいの大きさの、チョコレートでコーティングされた上にラズベリーが飾られているハート形のケーキだった。
- 「へぇ、すごいな。美味そう」
- 「どうかな。初めてだから、こんなの作るの」
- 嘘である。
- 「初めてにしては上出来じゃないか。ひょっとして、徹夜とかした?」
- 「そこまではしてないけど。でも頑張ってみたよ」
- 「そっか。……じゃ、いただきます」
- 近江は目を輝かせ、迷うことなくケーキを口元に運ぶ。そのまま噛りつく仕草が少年っぽくて、舞子は頬を染めて見詰めてしまっていた。
- (ひ、ひゃあぁぁ…… こんなカオするんだぁ)
- 舞子、かなり嬉しい。
- 「ま、まずかったらゴメンね」
- 恐る恐る上目使いに尋ねると、食べている最中なのでワンテンポ遅れて答えが返ってくる。
- 「……そんなことないぜ。美味いよ」
- 「ほんとっ?!」
- 「ああ」
- フルーツ入りの生クリームを頬張りながら、近江は微笑う。
- 「……よっ……しゃあぁぁーーーっっ!!」
- ポニーテールも一緒に嬉しげに跳ねる。
- 舞子は、心の中で上げたつもりの快哉を口に出してしまっていたことに気付いていなった。
- 舞子のそんな素直で天真爛漫なところが魅力なのだと近江は面と向かっては言えないこを考えつつ、改めて礼を述べるのだった。
- 「ありがとうな、ホント、俺なんかに……」
- 「そっ、そんなこと……」
- 「バレンタインなんて貰ったの、随分久し振りな気がするなぁ」
- 「色々、あったもんね」
- 「まぁな」
- 少し複雑に微笑んで、近江は指についたチョコレートクリームを嘗め、付け加えた。
- 「来月、期待してろよ」
- 「……うんっ♪」
- 満面の笑みを浮かべ、ガッツポーズを取ったままの舞子は、どこにでもいる「恋する少女」だった。
- バレンタインのの日だけは、「カルラ神教三十八代目教主」もお休みだ。
- (たまには、こんなのもいいよね……)
- 梅華のほころび始めたある早春の日の出来事であった。
《HAPPY END》