女から男へ、何故かチョコレートを贈って好意を伝える日本独特の行事がある。
もちろんそれは、呪術や目に見えない世界を身近に生きる特殊な家庭に育った自分達姉妹もよく知っていることだ。
日本人特有の商魂の逞しさから製菓会社の考案によるお祭り騒ぎに仕立て上げられたに過ぎないとうすうす気付いてはいても、人並みに女の子らしくそのときめきに胸を躍らせたこともある。
(……あったような気もするし、無かったような気もするわね)
翔子は、前日に二人で買い物に出た際に双子の妹が買い込んできた本を手に、一つ溜め息をついた。
「舞ちゃんが『初めてでもカンタン! 彼のハートをゲットするバレンタイン必勝レシピ満載・チョコレートとお菓子の本』……なーんて本を買うなんてねぇ」
ぱらぱらとめくると、成功すればそれはもうおいしそうに出来上がるのであろうチョコレート菓子の数々。その中の簡単そうな一つを選んで近江にプレゼントするべく、本を買った翌日、早くも材料を買い揃えてきた舞子はトレーナーにジーパンという服装の上にエプロンを着け、髪を三角巾で包みキッチンに立っていた。練習するからと一晩中熱心に熟読していたレシピを翔子に預けて見守っているよう頼み込むと、まるで挑みかかるように調理に取り掛かっているのだった。
何か戸惑うことがあったり、間違えそうなら指示するということでそこにいた翔子だが、意外に舞子はそつなくこなしている。
(やっぱり愛の力かしらね)
自分にはとても真似できない、と翔子は思っていた。
何事にも一生懸命。
誰に対しても真っすぐ。
舞子の気持ちも判らないでもない。
舞子が近江を想うのと同じではないにしても似た感情を抱く相手が、翔子にもいる。
でも、こういうプレゼントを贈るというのは違う気がする。こんなふうに熱中できない。
(近江くんは幸せね。舞ちゃんも)
ああ他人が聞いたらひがみに聞こえそう、と二度目の溜め息をついたところで、朝子が台所を覗き込んできた。
「何だかにぎやかね」
「あ、お母さん」
「珍しいわねぇ。舞子が料理なんて久し振りじゃない」
「うん。ほら、覚えてるでしょ、池田近江くん。彼にあげるんですって。その練習」
「ああ、バレンタイン? ますます珍しいわねぇ。大ざっぱだけど、やっぱり女の子ねぇ」
と、二人で見守っていると、千景まで顔を出して、ちょっかいをかけている。
バレンタインに渡すつもりで作っていたにもかかわらず、いきなり渡す段取りが千景によってお膳立てされてしまったので舞子は大慌てだ。
「ぎゃあぎゃあうるさいのう。どうせ呼び出して渡すつもりだったんだろうから構わんだろうが。わしは司に用があって呼んだが、そうすりゃ近江のぼうずもついて来るだろうから丁度いいじゃないか」
「そんな、おばあちゃん! 他人事だと思って…… それに近江くんをおまけみたいに〜〜〜」
三度目の溜め息。
(そんなところも可愛くて大好きよ、舞ちゃん)
「翔子はどうするの?」
「……えっ?」
突然、朝子に尋ねられて困惑した面持ちで母を見遣る。
「だから、翔子は何か作ってあげないの? 剣持さんに……」
「けっ、剣持さんに?! わ、私は……」
脳裏に舞子の言葉が蘇る。
−−−翔ちゃんだってさ、剣持さんにプレゼントするんでしょ?
−−−堂々と女の子からアプローチ出来る日なんだから。
−−−チョコなんてガラじゃないかもしれないけど、お酒でも何でもさ………
−−−剣持さんのこと、好きなんでしょ?
−−−駄目だよ、そんな消極的じゃ。
違うの。
そんなんじゃないの。
判ってるの。
ちゃんと言いたいの。
でもね。
(何かプレゼントしたいと思うのは確かよ。だけど、バレンタインだっていうのは…… どうしたらいいの?)
考え込んで廊下を歩いていくと、背後から舞子がまだ落ち着きを取り戻せずに追い掛けてくる。
「ねぇねぇ翔ちゃんどーしよー! おばあちゃんたら有無を言わせずに剣持さんと一緒に近江くん呼んじゃって私まだどうやって渡そうかとか受け取ってくれるかなとか色々考えてるのにどーしよー!」
よほどおろおろしているらしく、話している内容に句読点が感じられないほど一気にまくしたてる。
ふと。
翔子が返事をしないので、舞子は怪訝そうに口を結んで、頬を突っついてきた。
「こぉら。翔ちゃんらしくなーい」
翔子の目の前に、多少いびつな小さなハート形の物が差し出された。
「………チョコレートケーキ?」
「他の何かに見える? いくら翔ちゃんの台詞でも傷付いちゃうなあぁぁっ」
おどけてみせる。
さっき作ったものらしい。
ふさぎ込む姉を元気づけようと、練習とはいえせっかく作ったものだから胃袋に収めてしまおうということで部屋に落ち着き、二人は半分づつ口に運んだ。
「何にするか決まらないの、プレゼント?」
「うん。そもそも、バレンタインだからって何かあげるなんて、何か違う気がするんだもの」
「どうして? いいじゃない。翔ちゃんは奥手っていうか、控え目過ぎるのよ。はたから見てたって剣持さんのこと好きだなって判るのに、何のリアクションも無いんだもの。剣持さんも剣持さんよ。信頼出来る仲間としてしか見ないふりしてる」
もぐもぐと、生クリームやフルーツの甘さとチョコレートのほろ苦さとを口の中で混ぜながら、舞子が口にした言葉を反芻する。翔子は妹の意外な観察眼に驚きつつ、その内容が今まで失念していた事実を客観的に見させていることに気付いた。
仲間としてしか見ないふりしてる。
(……たしかに、そうかも。舞ちゃんたら鋭い)
翔子もチョコレートケーキを食べながら、舞子の言い分に耳を傾ける。
「そりゃあさ、近江くんだって似たようなもんだけど。私もそう言えば何も言ってないし、だけど、良く考えてみるとやっぱり好きみたいだし」
「みたい、って。舞ちゃんたら」
「うん。少なくとも嫌いじゃないし、事情を知ってるから頼りになるし、私達のこと変な目で見ないし、そうね、同じような力を持ってるからかな、親近感? 仲間意識? そういうのもあるよ。どっか危なっかしくてほっとけないとこもあってさ、でもカッコイイなって思うこともあるし、家庭の事情も下手するとうちより複雑だから支えになってあげたいし、いわゆる恋してるってのとはちょっと違う気もするけど、じゃあ何なのかっていったらよく判らない。でも一緒にいたいと思うの。好きだと思うよ。翔ちゃんはさ、剣持さんをそんなふうに思ったこと、無い?」
いつになく饒舌な舞子に対し、翔子は口数が少なくなっていた。
「私は………」
半分になったハート形のチョコレートケーキ。表面にコーティングされたチョコレートがしっとりと溶けて、まるで半身をもがれて泣いているみたいに見える。
「私は、剣持さんに憧れているのかも。あんなすごい陰陽師、他に知らない。知識量も尊敬してる」
「翔ちゃんだって勉強してるじゃない。あの人になりたいわけじゃないでしょ?」
「そうね。違うわ。あの人に劣らない術者でいたいのかも。女の子としてより、剣持さんに対等だと認められたいの。あの人が守る心配をしなくていいように、一緒に戦えるように、私はなりたいんだわ」
そんなふうに誰かを想って考え込んでいる自分は、この半分になったチョコレートケーキとそっくり。
舞子は呪術と深い関りを持った家に生まれて宿命を背負いながらも、素直に他人への好意を表すことに夢中になって楽しんでいる。当たり前のように自分の中に芽生えた新しい気持ちを受け入れて、同じスタートラインに立って常に同じ歩調で歩いてきたはずの姉である自分を、いつの間にか追い越して先に進んでしまった。
(そうか。もしかして置いていかれて淋しいだけなんじゃないかしら、私……)
舞子は、ふうん、と目をくるりと動かして何か思案しているようだ。
「取り敢えずさ、剣持さんのことを尊敬してて、憧れてるわけだ」
「うん」
「それって、嫌いじゃないってことだよね?」
「……うん」
「じゃあ好きなのねって誘導尋問はしないよ。それなら、そういう気持ちを込めてこの機会にプレゼントすればいいじゃない。たまにはそういうのもいいでしょ」
「……………」
翔子が目を丸くして顔を上げると、舞子はうっ、とひるんでみせた。
「なっ ……何?」
たっぷり間を置いて、翔子はつぶやいた。
「舞ちゃんが難しい単語使ってる………」
「しみじみ言うなぁーーーーっ!」
※※※※※※
「14日、うちに来る前に少し時間ありますか?」
剣持が近江を伴って扇家を訪れる予定の日の三日前。
翔子は戦うときよりも勇気と決意を振り絞って剣持に電話をかけた。そして「個人的に話があるんです」と前置きして、そう切り出した。
剣持は断る理由もなく、快く承諾して大まかな時間を決めた。
電話を終えて振り向けば、あからさまに聞き耳を立てていた舞子がいいる。もっとも、気配で判ってはいたのだが。
「デートの約束、した?」
「デ、デートっていうか……」
「今更否定しないの。約束したんでしょ?」
「……一応」
「やったね! 翔ちゃんファイト!」
舞子はまるで自分のことのようにガッツポーズなどしてみせる。
「舞ちゃんたら、面白がってない? 近江くんにプレゼント渡すのにあんなに騒いでたくせに」
「今だってどーしよーって思ってるよ。でも、私は私で頑張るから、翔ちゃんも頑張ってって言いたいのよ」
何事にも全力投球な舞子らしい。
「うん。そうね…… 頑張るわ」
「その意気よ! じゃあ、明日にでも買い物に行く? 私は手作りだけど、何か買いに行くなら付き合うよ。それとも翔ちゃんも手作りにする?」
わくわくと計画を練る舞子だったが、翔子は黙考したのち、こう答えた。
「一人で行くわ。舞ちゃんが邪魔っていうんじゃ決してないのよ。そうじゃなくてね。何だか、何でも二人揃ってっていうより、今回は自分一人で考えて、選びたいの」
舞子は、まるで荘厳な儀式に向かうような言葉に一瞬だが唖然と姉を見詰め、やがてほんわりと微笑んだ。
「…うん、分かった。いってらっしゃい、翔ちゃん」
※※※※※※
日が経つのは早い。
翔子が剣持へのプレゼントの買い物に出てから、それを渡す当日まではあっという間だった。
いざバレンタイン当日になってみれば、あれ程冷静に翔子を宥め励ましていた舞子の方が落ち着かない様子だった。
玄関先で、何度となく繰り返した自分と相手へのお互いのエール。
今日は千景の用事で呼び出された剣持がやって来る。そして近江も。舞子にとっての客は当然近江だが、翔子は遅れて来るという剣持を迎えに行く名目で家を出て、扇家に案内する時間を使ってプレゼントを渡すつもりだった。
最寄りの駅に向かう途中、余裕を持って家を出たのでゆっくり歩いているというのに、どんどん鼓動が速くなってくる。
やっぱり緊張しているらしい。
この日は素晴らしい晴天だったが、一年で最も冷える時期であるために、吐く息が明るい日差しいの中でも目に見えて白い。その白い呼気が陽光を浴びてきらきらと煌めいている。
胸のどきどきは翔子を急がせ、焦らせる。
(でも、剣持さんより近江くんが先に来るのよね。彼にこんなあがってる私を見られるのは嫌だなぁ……)
そんなことを思いながら程なく駅前に出る。外を見渡せる喫茶店にでも入って近江をやり過ごそうかと思い付いて何気なく改札へ視線を向けると、翔子の口から、つい「えっ」という声が漏れた。
そこには、見覚えのある肩を越して垂らされた黒髪。ひどく印象に残る長身。
翔子は、まさかと思いながら見間違うはずの無いその人物のもとへと走り出していた。
彼は足音よりも気配に気付いた様子で瞬時にこちらを視認して微笑んだ。
「やあ翔子さん、こんにちは。早かったですね」
それはこっちの台詞だ、と心の中でツッコミながら、驚きを隠せない翔子だった。
「剣持さん! どうして……」
確か千景の話では剣持は別件の用事があって贈れるということだったのに。
「あの、まだ時間じゃなかったですよね?」
「ええ。午前中の用事が意外に早く終わりましてね。翔子さんとの約束もありましたし、さっさと参上した次第です」
にこやかに剣持は事情を話し、昼時ということもあって当然のように飲食店街へと誘うのだった。
「お食事まだですか? でしたらうちで」
と言いかけた翔子をやんわり制して、剣持は言う。
「まだ扇家へ行くには早いですし、その辺で食べませんか。それに、私の用事はまだ済んでいませんから」
どきん、と胸が高鳴って時間が一瞬止まる。
(それって、私との約束のこと? 私との時間があるから、まだ用事が済んでないって……)
そういえば、そのまま扇家に行ってしまったらせっかく二人でいる時間を作ってもらったのに意味がなくなってしまう。
(いやね、私ったら。普段ならもっと冷静に立ち振る舞うはず。もうちょっと要領いいと思ってたけど)
歩きながらまとまらない思考をどうにかまとめて話題を戻してみる。
「午前中の用事って、何か事件でも?」
「いえいえ。そんなにしょっちゅう何かあっては困りますからね。今日のは本業で、往診に行って来たんですよ」
「そうですか。よかった」
何となく日本蕎麦屋などを見付けて席に落ち着くと、剣持はコートを脱いだ。コートの下は落ち着いた色合いのアイボリーのジャケットで、男にしては艶やかな黒髪がよく映えている。
コートを椅子の背に掛け、そこへゆったりと座り、机の上で指を組んだ。
その瞬間、翔子は空気を読んで緊張感を高めた。
剣持のその何気ない仕草は「さてお話をお聞きしましょう」というポーズだ。
(何て切り出せばいいの……)
喉を潤すふりで運ばれてきたお茶を口に運ぶ。
「あの… すみませんでした。お忙しいのに呼び出したりして」
「どうしたんですか、そんな他人行儀な。私はたまにこういう時間を持たせていただいて感謝してますよ」
と、既に注文を決めていたらしい剣持はお品書きを翔子に向けながら、ぺこりと会釈した。
「そんな……」
言いかけたところへ、剣持が注文を付け足していいかと再びお品書きを覗き込んでくる。
「追加ですか? どうぞ」
「では遠慮なく。この大吟醸を」
昼間から飲むのか、と思わず目を丸くした翔子である。
(おばあちゃんの前にお酒のにおいさせて出るつもりなんて、すごい度胸……)
「本当にお酒好きなんですね」
口に出たのは我ながら間抜けな台詞だった。
「昼間っから、って思ったでしょ? でもね、お銚子一本くらいならビールよりいいんですよ」
そんな話をしているうちに、いつの間にかリラックスしてしまっている。
こんな穏やかな雰囲気を持った人だったかとまじまじ剣持を見詰め、翔子は大事に膝に抱えていた浅葱色の紙袋をそっと卓の上に置いた。
剣持は、一度それに視線を触れさせて、そのまま翔子と目を合わせる。
ほっとした。
言葉で何かと尋ねられるより、そうされたことですんなり答えるきっかけが訪れたからだ。
「私はお酒が飲めませんし、剣持さんに何かプレゼントするのに、何がいいかって考えて……」
一度言葉を切って続ける。
「バレンタインだからってチョコレートを贈るだけで安直に済ませたくなかったんです。でも、お酒好きの人に飲まない私がお酒を選ぶわけにもいかなくって。だから………」
喋りながら、だんだん視線が下に向いていく。ついに紙袋にかけたままの自分の手を見詰め、その視線で後押しするように紙袋を剣持の方へ押し出した。
「私にですか? 気を遣っていただいて申し訳ありませんねぇ。ありがとうございます」
意外にも少し照れたふうに笑った剣持は、それでも騒ぎも驚きもせず、それを受け取った。
(剣持さん…… バレンタインっていうの、聞いてましたか?)
思わず胸中で問い掛けてしまった翔子だったが、またも剣持に視線で「開けていいですか?」と問われて、「どうぞ」と促すしか出来なかった。
紙袋の中には同じ浅葱色の和紙で包まれた箱。取り出して丁寧に包装を外せば、箱の中身はガラス製の御銚子と御猪口のセットだった。
「これは……」
通常のものよりやや大ぶりで、手にしっくりとなじむ丸みのある形。御猪口の方は男性が親指と人差し指、中指で持つと丁度いいし、手触りも滑らかだ。
透明なガラスには深い海の色の蒼が溶け込んでいて、徐々に無色透明へと色が移っていくグラデーション。それがまるで波のようにうねっていて見ていて飽きが来ない。
「きれいですね。いいものだ」
「そんな、たいしたものじゃないですよ。お酒が駄目ならそれを楽しむ道具っていう単純な発想ですもの」
「いいえ、そこまで考えて下さって嬉しいですね。それに翔子さんの選んでくれたものですから」
宝物を扱うように慎重に、剣持はそれらを手に取ってしばらく眺め、やがて同じように箱に戻した。
「本当にありがとうございます。大事に使わせていただきますよ」
結局、それがきっかけで話が弾んだ。正直言って翔子は大した話があったわけではなく、プレゼントを渡す口実に過ぎなかったのだが、結果オーライといったところだろう。
翔子はその後タイミングよく自分が注文した蕎麦が来てからも普段の明るさを取り戻していた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「はい」
食事も終わり、今度は翔子が扇家へと案内する。
さっきまで寒さが身にしみていたのに、暖かな日差しのおかげか穏やかな昼下がりが訪れていた。
駅から自宅までのいつもの何の変哲も無い道が、剣持と二人で歩いているだけで新鮮に目に映るから不思議だ。これが初めてではないというのに。
間も無く扇家が見えてくる。
と、玄関を入ったとろで剣持は翔子を呼び止める。
「翔子さん」
「はい?」
「ありがとうございます。こんなゆったりした時間を過ごせたのも久し振りでしたし、素敵な贈り物もね」
にこりと微笑んで高い位置から優しく見下ろしてくる。
剣持の厳しい表情を見ることが多いため、そんな穏やかな笑顔を向けられると戸惑ってしまう。
頬が熱い。
「いえ……」
若干の間をあけて何とかそれだけ言った翔子は、千景の部屋へ向かう剣持の背を見送りつつ、火照った頬を手袋のまま抑えてしばし廊下に佇んだ。
※※※※※※
蛇足。
(そういえば、舞ちゃんはどうしたかしら)
朝子は出掛けていたしかったので、取り敢えず一人で台所に入った。そこでお茶を煎れて一息ついた翔子の脳裏に、つい数時間前に舞子と交わした会話が蘇る。
もう近江も来ているはずだ。
(私は頑張ってみたよ。舞ちゃんもきっと……)
そう信じてみても、気になりだすとすぐに知りたくなるものだ。
湯呑みを置く。
すっくと立ち上がり、脱いで椅子の背にかけておいたコートを取って再度着込み、そっと玄関を出る。
近所の公園に足早に駆け込んで翔子がしたことといえば。
素早く人払いの結界を張る。
枝を拾い上げ、地面に八角遠見の陣を敷く。
(何をやってるのかしら、私……)
目を閉じて。
血を分けた双子の姉妹である舞子の気配を求めて。
距離を無効にして、その気配のある方向を感覚で探る。
(ごめんね、舞ちゃん)
すると。
何とか笑顔をキープしたままの舞子に、きれいにラッピングされた小箱を差し出されて、きょんとした近江が見える。
まじまじと箱を眺めていたと思うと、やがてゆっくりと視線を上げつ箱を受け取った。
勢いに気圧された感じだったのが、照れた笑いに変わる。
期待通りという感じであまりうろたえていないように見える近江だったが、翔子にはその隠された心の声が漏れ聞こえてくるようだった。どきどきとリボンを解き、包装を外して箱を開けていくのを、気付いていない舞子と共に見守る。
掌に載るくらいの大きさのチョコレートケーキに顔をほころばせる近江。
(あら、初めて見る表情だわ)
目を輝かせ、迷うことなくケーキを口元に運んでそのまま噛りつく少年っぽい近江の仕草も、翔子は初めて見た。
(か、可愛い…… 舞ちゃん嬉しいだろうな)
舞子の喜びに震える感情の波が半分それにシンクロしてる翔子にも伝わってきて、そのあまりの強さに引きずられそうになる。
(………!)
感情をあらわにすると相手に気付かれてしまう。危なくミスをおかしそうになって、翔子は慌てて必死に自分を抑え、平静を保つことに努めた。
そして垣間見た、フルーツ入の生クリームをほお張りながら微笑った近江。
「……よっ……しゃあぁぁーーーーっ!!」
通りを隔てたこん公園にまで、かすかにその叫びは聞こえてきた。
どうやら舞子は心の中で上げたつもりの快哉をしっかり口に出してしまったらしい。
近江は、そんな舞子に改めて礼を述べ、来月の約束をしている。
(舞ちゃんが好きになるのも解るわ。あんなに大変な思いをして生きてきたのに、近江くんは心が毅い。照れにも気負いにも負けないで、ちゃんと舞ちゃんに言うべきところを伝えて……)
うっかり考え込みかけてしまった翔子の耳には、近江のある一言が残っていた。
「バレンタインなんて貰ったの、随分久し振りな気がするなぁ」
少し複雑に微笑んで指についたチョコレートクリームを嘗める様子がまた乙女心をくすぐる仕草だったので、舞子はそっちに気を取られていたようだったが。
(バレンタインにプレゼント貰うのは「初めて」じゃなくて「久し振り」って、近江くん言ったわよね。そりゃ、初めてってのも淋しいし、他にも近江くんの良さを認める子がいたのは、よく考えれば『さすが近江くんね』って喜んでいいことかもしれないけど…… そうか、やっぱり初めてじゃないのねー。奈良にいた頃で私達と知り合う前よね、当然。そうは言ってもねー…… 少しはやきもち焼いてみせなさいよ、舞ちゃん……)
ていうか、あまりに浮かれてて気付かないのね、と思いながら翔子はここで術を中止した。
何にせよ、お互いに大切な相手の貴重な表情を見ることが出来た。好きな人の幸せは自分にとっても幸せだ。 勇気を出してみてよかった。
そして、彼らが帰った後は二人でハイタッチして健闘を賛え合おうなどと考える。
何食わぬ顔で家に戻る間、翔子は無意識のうちに鼻歌など唄っていたのだった。
《終》