天下泰平――少女、一喜一憂。
教主、悠悠閑閑――

桜海凪


 
 森居美佐子はおおいに焦っていた。

 あともう少し経てば、自分は二年生に進級する。進級するということは、かの憧れの寄柳先輩が浅園高校を卒業してしまうということなのだ。が、焦りの主な原因はそれではない。

 あの狐戸籍の事件以来、寄柳とは顔を合わせれば笑顔で何分か立ち話するほど親しくなった。ごく自然な成り行きであり、上手くすれば卒業までに親しい『友人』から、『彼女』となる日が来るのは夢ではないかも。と美佐子はすっかり天にも昇る心地で連日、合気道部の練習を見に行っては幸せに浸っていたのだが――

 ある日の寄柳との会話ですっかり忘れていた事を思い出させられ、焦りを覚えることになってしまった。

 話が狐戸籍の件に及んだ時だ。

「本当に寄柳さんが来て下さらなかったら、あたし……」

 美佐子は彼に助け起こされた瞬間の記憶を――無論それまで何度も繰り返してはいたのだが――脳裏に再生させて、陶然と言う。

 寄柳は美佐子の好意に気付いて(気付かされて)いないこともないだろうにあくまでそれを感謝の思いとして何度でも

「いや、俺はただついて行っただけだからね」

 礼は扇に言ってくれ、と爽やかに笑む。律儀な人だ。

 見たいものだけを視界に入れるこの年頃の少女らしく、扇姉妹のことはそれまで念頭になかったから、そういえばあの人も助けに来てくれたんだっけ、と思い出すと共に、彼の口から「扇」という名を聞くごとに美佐子の胸に、何とも言えない不安が溜まってゆく。

 原因はこれなのだ。

(またあの人……)

 助けてもらった手前、前のように蛇蝎(だかつ)の如く罵る――といっても本人の前ではやったことはない――ことはさすがに出来ないが、それ故もやもやが膨らんでしまうのだった。寄柳は殊に舞子を買っているらしいので尚更だ。思い切って尋ねてみる。

「あの、扇先輩って凄い人なんですか?」

 扇舞子は確かに有名人である。その双子の姉も同様で、浅園高校(ここ)を中心としてこの近辺で知らぬものはいないくらいだ。聞くところによると、ふたりとも入学当初から五日余りで既に名が知れ渡っていたという。

 何でも舞子は体育会系の部活からの熱烈な勧誘を受けたらしい。その素晴らしい運動能力は、まさにスポーツ関係の部にしてみれば垂涎(すいぜん)ものであったのだ。何としてでも今からツバをつけておかねば!という、当時の各部の意気込みは語り草となっているところであった。

 美佐子には納得がいかない。寄柳に憧れて、初めて合気道部を覗きに行った折、その扇舞子がいるというので観察してみると、運動能力がずば抜けて優れているのには驚かされたが、それ以外には別段、特殊なものを具(そな)えているとは考えられなかった。「なんだ。普通じゃない」という感想をもったのだ。人好きのするようだが、何故ここまで校内で絶大な人気があるのか疑問だった。

 舞子の双子の姉、扇翔子なら納得がいく。彼女の才媛ぶりは轟き渡っているし、どこか謎めきを帯びた清楚な容姿と挙措(きょそ)に惹かれる男子はあまたいると聞いている。他ならぬ美佐子のクラスの男子大半が、扇翔子に憧れているのだ。 

 だから寄柳がどうしてそこまで舞子を買っているのか、知りたかった。寄柳の、舞子を語る口ぶりには、自分より上をいく者をただ賞賛しているだけではないものがあるような気がしたのだ。

 美佐子の問いに寄柳はまた笑って

「君も噂は聞いただろうけど、あの抜群の運動能力は掛け値なしに凄いよ。ああ、これはもうすでに見てるね。……それに何より扇は傑物だからね」

「傑物……ですか?」

 意味がわからない。どこが傑物なのか。

「そう。傑物、大物としか言いようがないね。どこがどうって訊かれると説明に困る。けど端的にこう言い表すのが一番わかりやすいと思うよ」

 全然わからない。自分の疑問をすっきりとさせてくれる答えではない。つい顰(しか)め面になった美佐子に、寄柳は更に懇々と説明してくれた。

「一見、彼女は普通に見えるだろ?その『普通』が曲者なんだ。天真爛漫な女の子のようだが――実際そうだが、それだけでなく他に凄いモノをもってる。中身はとにかく只者(ただもの)ではありえない。これは、気付かない人は気付かないだろうね。普段は『見えない』類のものだし、俺も気付いたのは突然で……つい、この間だしな。俺が彼女に一目置くのは腕がたつ部分だけじゃなく、そういうところさ。ごめん、……余計わかりにくくしたかな」

 理解しようと真剣に耳を傾けていた美佐子だが、やはり半分も理解できない。だが、安心した。どうやら恋愛感情ではないようだ。そのようなニュアンスではなかった。が、次の言葉でまたもや気分は逆戻りだ。それも前より悪い。

「なんたって、あのおばあちゃんの孫だもんなぁ。扇姉妹のお母さんも楚々とした上品な美人だったけど、どこか只者じゃなかったし」

 独り言だったのだろう。寄柳はしみじみと頷いているが、隣の少女は既に静止してしまっている。

(え……?)(今のって、まさか――)

 まさか……。美佐子はもう氷海に放り込まれた人よろしく蒼ざめてさえいた。

 泣きそうな声で言う。

「あの……扇先輩のご家族とそんなに親しくなさっているんですか?」

 それほど家族との交流が深いと言うことは……

 もはや両親公認の仲なのでは?

 ――先走った美佐子である。劇的なまでの勘違いをした少女は、大きく身体を震わせると、「そんなの、ずるい!」大きく叫んで、突如走り去ったのだった。

「え?森居さん!」

 寄柳は突然の反応に対応できず、その場に置いて行かれた。今までふたりは校舎と校舎を繋ぐ橋の上(いわゆるオーバーブリッジ)で、話をしていたのである。

 二十秒後、呆然としていた寄柳が、少女が何を勘違いしたかに気付いて「あーっ」という絶叫と共に追いかけようとした瞬間、休み時間終了のチャイムが絶妙のタイミングで鳴ったのだった。

 放課後、美佐子は走っていた。猛烈に怒っていた。「美佐子、どうしたの。すごい変な顔して」という友達の言葉も一緒に帰ろうと言う友達も振り切って、扇舞子のいるクラスへと目指していた。途中「美佐子、足速いじゃん。陸上部に入んなよ」とからかう他クラスの女子にも会ったが、「おどき!」

 遠慮なく突き飛ばして、走り去る。陸上部の先輩方がこの様を見たら目の色を変えるかもしれない。廊下掃除の当番が嘆くほど、美佐子が去った後に舞いあがった埃は凄いものだった。

 疾走、疾走、疾走。

(おのれぇぇ!扇舞子ぉ!)

 今日は確か合気道の部活は休みだったはずだ。にしても、許せない。あれだけ寄柳さんをコケにしておいて、それなのにちゃっかり両親を紹介済みでその上、あたしの気持ちを知っているはずなのに、そしらぬ顔であたしのことを無視した!ちょっと人気があるからってもう、許せない!話つけてやる!

 暴走している。かなり、いや相当思考にずれがある。この手の少女は誤解が激しい。

 寄柳先輩に卒業までに告白しなければ、という焦りと寄柳先輩にはすでに想う人がいるのでは?という不安、何かというと寄柳先輩の側にいて(部活なのだから当然だが)自分を邪魔する――しているように美佐子には見える――扇舞子への妬きもち、そんな彼女が校内の人気者であることへの反感、などがここに来て一気に絶頂に至った。これらすべて寄柳への思慕から生まれている。恋の恨みは多少の矛盾など意に介さない。

 ようやく彼女のクラスへ辿り着く。

「扇先輩!話があります!」

 思いつめた形相で教室へ足を踏み入れる。まるで道場破り。気炎を吐く少女に、教室掃除の数人が圧倒されて隅へ寄っていく。

 そこには舞子はおらず翔子が残った舞子の友人と何か話し合っていた。自分に用があるのかと翔子は席から立ち上がって、美佐子へと近づいて来る。

「何か?あら、あなた確か……森居美佐子さん、だったわね?」

 翔子は優しく微笑する。

 美佐子はキッ、と物凄い目線で「あなたには用はないのよ!」と語り「扇舞子さんはどこにいるんですか?」と実際に口に出した。

 翔子は相手の気迫に、ちょっと考え込むような顔をしたが、「舞ちゃんなら屋上にいるわよ」と結局教えてやった。即座に身を翻す美佐子。屋上へ一直線に向かい、目標物を見つけんがため、ずんずんと歩んでいった。

(いた……!扇舞子)

 目標確認。

 舞子は数人の友人に囲まれて、久しぶりに放課後のお喋りを楽しんでいた。冷たいくらいの風が、かえって気持ちいいとさえ感じる季節である。ホットドリンクを片手に屋上でのお喋りは弾んでいた。が、これまた美佐子の癇にさわった。

(ふん、みんなのご機嫌とっちゃってさ!)

「あれ?」

 美佐子に気付いて舞子が笑いかけてきた。

「美佐子ちゃん、今日はどうしたの?」

「馴れ馴れしく呼ばないで下さい!」

 連日練習を見てはいたものの、舞子とはほとんど挨拶程度でしか、口をきいてはいないから――というより美佐子が舞子に何か言われる前に立ち去っていたのだ――こうして美佐子の方から来るのは珍しい。しかも……怒っているらしい。

 舞子は首を傾げる。どうもあまり好かれてはいないようなのは知っていたが、感情を剥き出しにしてくるのは初めてだ。

「みんな、ちょっとごめんね。なんだったら先に帰ってていいから」

 と友達に断って、自分から美佐子の方へやって来た。舞子の友人達は意外そうな表情をしている。舞子がこれほどに誰かに毛嫌いされているのを見たことがない。

「いい加減にしたらどうですか?」

 人が少なからずいるので怒りを押し殺した声で迫る。

「……何が?」

 相手を怒らすつもりはないが、状況がさっぱりだからこう尋ねるしかない。

 美佐子は声を荒げる。

「いつまで寄柳さんを弄べば気が済むのかと訊いてるのよ!寄柳さんより強いことを鼻にかけて……!」

 怒りでこれ以上言葉が出て来ない。ありったけの憤りで目の前の恋敵(?)を睨むが、びくともしない。不思議そうにこっちを見ている。普通こういう時は何か言い返すだろうに首を傾げて、じっと黙っている。

 この女、どっかズレてんじゃないの?と美佐子が沈黙に痺れを切らしたその瞬間、不意に舞子はにっこりと微笑んだのだ。見事な笑顔だった。

「え?」

 あっさり出端を挫かれる。

 そうして舞子はぽん、と手を叩くと

「もしかして、寄柳先輩のこと好きなの?」

 相変わらずにっこりと微笑む。眼が「そうでしょ」と質問していた。

「……………………」

 美佐子は――何も言えなくなった。

 とてつもなく深い沈黙の後に、声を絞り出す。

「……知らなかった、……んですか……?」

 我ながら間抜けな声音だった。まじまじと舞子を窺ったが、本気で言ったセリフに相違無いらしい。目を見ても、ひたすら真っ直ぐ見返してくる。からかいや意地悪な魂胆は何も感じられない。

 そういえばこの人の目を直視するのは、初めてだ。澄んだ瞳だなと思った。思ってしまった。

 またしばらく硬直する。舞子も美佐子に合わせて動かずにいる。何となく、わかってきた。彼女が『傑物』といわれるわけが。この場合、鈍感というべきなのだろうが、ここまでくると大物といってもいいかもしれない。

 自分がおおいなる勘違いをしたこと、筋違いのケンカを売っていることに気付き始めてはいたが納得出来ないことはあるから、もう一度気を奮い起こした。

「寄柳さんのこと、好きなんじゃないんですか?」

 舞子は「はあ?」と疑問符そのものの顔をして、数々の(美佐子の)言葉の意味を思案していたが、どうやら呑みこめたらしい。やがてすっきりした顔になった。

「……美佐子ちゃん、勘違いだよ、それ」

「じゃあ、じゃあ、何故寄柳先輩が扇さんのご家族をご存知なんです?それもあんなにくわしく……」

 呆然としているせいで声が宙を泳いでいるような感覚がする。

「大したことじゃないよ。去年の十一月に翔ちゃんと飛騨に行ったんだけど、その時に寄柳先輩がうちのおばあちゃんに稽古をつけてもらいに来たんだよ。それで。うちのおばあちゃん、寄柳先輩のおじいちゃんの知り合いなんだ」

「!!」

 さらりと真実を述べられた気の毒な美佐子は、紛れも無い本当のことだと実感すると大!赤面した。体中の血液が上昇する。同時に下がってゆく気もする。

 (あたしって一体……)と魂が地盤沈下の如く落ち込み、めりこんでゆく。顔には縦ジマがくっきりとあったに違いない。

 「な、何事!?」といういくつもの視線が彼女を取り巻いたがそんなことに気付く余裕はなかった。

 舞子は美佐子を気遣って、屋上の隅へと連れていく。

 一方寄柳は大慌てで美佐子を探していた。まずいことを口走ってしまった。内容がまずいのではない、言うべき相手とタイミングが悪かった。

 恋愛かそうでないのかははっきりと知ってはいないけれども、あの子が自分に好意を持っていることは確かだ。どんな勘違いをやらかしたか、想像がつくもの。ましてやもっと恐ろしいことに舞子は無論わかってはいるだろうが、自分の舞子に向ける友情が恋情と思われてはたまらない。扇を恋愛相手に選ぶなぞ、俺にそんな度胸はないぞぉー、と目眩すら感じてしまう。

 単なる『恋人』では闘いに身を置くあの娘と生きてゆくのは難しい。平穏な市井に生きる人間であれば尚更、並外れた覚悟がいる。

 そういう世界に生きている娘なのだ。自分はその世界のごく一部を垣間見たに過ぎないけれど、それくらいは感じ取れた。半端な覚悟では失礼に当たるとさえ思う。自分は市井の中で生きてゆきたいと願う普通の人間であるし、願ってもそのように生きられない人のいる中で、そういう生き方が許されている、運の良い存在だった。

 それ以前にあくまで手合わせにおけるライバル――いつか(もしかすると一生をかけることになるかもしれないとしても)必ず同じ域に到達してみせると目標にした相手であり、話していて面白い友達なのだ。長い付き合いになるだろうが、それ以上の存在になろうとは思わない。

 暴走した美佐子が自身の誤解を誰かに話したことで、校内にとんでもない噂が流れるという可能性に、全身に冷や汗を感じる始末であった。……幸いにこれは杞憂で済んだが。

「まあまあ、美佐子ちゃん、考えてみればそういう勘違いもあって然るべき……とは……いえないか。じゃなくて!そんなに固くならなくて平気だよ。気にしてないから」

 普通「気にしてない」と言われると気にしていると言っているように聞こえたりもするものだが、この人は本当に気にしてないらしい。むしろ美佐子の勘違いが可愛いと、いかにも日常の女の子らしい悩みだと感心すらしているらしい。

 そう思われていることが何よりも恥ずかしいのだが、口には出せない。どう口を開けば良いのか……この場を速やかに立ち去るにはどうするか必死の体で考えをめぐらす。

 結論は簡単だった。謝れば済む事なのだ。謝ってすぐさま去るのだ。しかし素直に詫びを言い出すにも、いつ言うべきかとタイミングを測る彼女の顔を覗きこんだ舞子は

「美佐子ちゃん、なんかスポーツやったことある?」

 がらりと今の状況に関連性のなさそうな質問を発した。

「は?」

 羞恥が刹那吹き飛んで、美佐子は顔を上げる。まともに舞子の瞳と合わさったのでちょっとびっくりする。が、視線を外そうとはしなかった。真摯な目の色に、逸らしてはいけないのだと思った。

 先程も感じたがよく輝く印象的な目だ。

 ひとたび真っ直ぐ誰かを見据えたら、その見つめられた者の記憶にしかと刻まれる鮮烈な眼差しだった。今は自分への気遣いに柔らかく光っているが、彼女が怒ればどれほどその瞳は燃え上がることか。そんなことを考えた。そこではっ、とする。これではまるで魅了されているみたいではないか。あたしはこの人が嫌いなのに。否定はしたが、力は全くこもっていない。

「ね、やってた?」

 再びの質問に今度は「いいえ、特にはないです」と答える。舞子は微笑んだまま、優しく言うのだった。

「以前美佐子ちゃん、なんであたしが先輩である寄柳さんを、たてることなく衆目の前で投げ飛ばすんだ!って言ったことあったよね」

「聞こえてたんですか?」

 げっ、と眼を見開いた美佐子は舞子が思わず笑いを洩らしそうになるくらい、バツの悪い表情になった。傷つけないようにと吹き出しそうなのをこらえて、

「あれだけ大きな声で叫んでればね。で、質問の答えだけど――スポーツやってたらわかると思ったんだけどね。でも何でもいいや。何か得意なことをやっていて、自分と同じくらいの凄い人が現れたとする。その場合互いに遠慮し合うことはしないで、とことん競い合うでしょう?互いに認め合っているわけだから手加減はいっそ、失礼に当たるんだ。武道も同じ。それから、たとえ対峙した相手が未熟でも――素人だったら別だけど――気を抜くと手痛い目に遭ったりもするから、武道を嗜む相手には初心者でも真剣に相手をする。命懸けでなくてもね。そう……」

 舞子は一旦言葉を切った。周りを見渡し、再び口を開く。

「少なくとも、あたしはそうしてる。――いつ真剣でいられなくなるか、わからないしね……」

 後半の言葉は独り言のようで、美佐子の耳を素通りしていった。

 単に怒り任せに叫んだ言葉なのに、きちんと答えを返してくれている。

 不思議な人――ふと、美佐子はこだわりを忘れて目の前の先輩を見つめた。

 そしてその人の様子に釘付けとなった。

 『何か』が違ってきている。

 それとは中々気付かぬほどの――屋上を吹き過ぎる風に紛れてしまいそうなくらいの、微妙な気が彼女の周りに揺らめいていた。美佐子は首を傾げる。なんだろう?

 そうして舞子がこちらを向いた時、わけのわからぬ感覚が全身に被さってきた。

(え、うそ。なんだか……怖い)

 認めたくはなかったが、何やら得体の知れなさを感じて美佐子は怯んだ。瞳を見て更にそれは増した。何ともいえない、寒気とも熱気ともつかぬ気が彼女から放たれていた。

 ごくごく一瞬のことなのだ。舞子が口をつぐみ、美佐子が緊張を覚えていたのは。眼前の明るい先輩が今までとは異なる雰囲気を孕んで別人のように厳しい目をしていたのは。それは明らかに美佐子以外の何かに向けられた視線ではあったが彼女にはそこまで汲み取れていない。あまりにも強い意志を秘めた目に気圧されていたのだった。

 空恐ろしいほどの気配。平穏に生きる常人には理解しがたいもの。それは<闘気>とでもいうべきもの――。

「どうしたの?」

 軽やかな声が緊張を解いた。いつもの気さくな舞子だった。

(――このことなの!)

 閃いた。たった今寄柳の言ったことが呑みこめた。彼の言葉を聞いていなければ気のせいと思っていた筈だ。

 成る程、あの半瞬に垣間見えた彼女の『顔』は、気のせいだと思えばそれまでだ。けれど気のせいではけしてなかった。舞子の側に何故、多くの人が寄ってくるのかを知り得た。『傑物』といわれる本当の意味を。

 天真爛漫で颯爽としていて。それだけでも人は寄って来る。が、そういった愛すべき性質の他に、人間を強烈に引き寄せる『何か』が彼女の奥底で光を放っている。空恐ろしさを感じさせるのはそれがあまりにも大きなものであるからなのだった。広々とした海原を前に、満天の星々を仰ぎ見た時に覚える計り知れなさに似ている、とでもいえばいいだろうか。理屈ではない。そして彼女の姉もまた、優れた外見、性質以外の『何か』をもっているのではないだろうか。

 凄いのは、それを普段感じさせない『普通』なところである。意識して『普通』でいるわけではないところは尚凄い。本人は様様な『顔』を用いてあらゆる状況に応ずることを、特に意識して行っているのではあるまい。どんな『顔』も自身のすべての顔であり、意識せずに切り替えることが自然に出来るのだ。

 美佐子にはそこまで明確には捉えられてはいなかったにしろ、何故舞子はあれほどに、いっそ異常なまでに人を魅きつけるのか、という疑問の氷解を本能的に感じたことで満足していた。寄柳に関する疑惑も解消される。

(そういうことなんだ……)

 寄柳は扇舞子の、どのようなものにも立ち向かってゆける強靭な面を察して、純粋に賞賛したのだ。舞子と寄柳とは信頼関係にある大切な友人同士なのである。と、はっきりしてから美佐子は驚くほど穏やかな声で、言った。

「ごめんなさい。勝手な思い込みで騒がせちゃって」

 ただただ彼女を嫌っていた。寄柳に近いところにいたから。あのひとに誰よりも認められている人だったから。だからこの人自身を『見たく』なかった。『見ようと』していなかった。自分は彼女が大らかで気持の良い人であることをどこかでわかっていて、認めようとしていなかった。

「いいってば。それより落ち着いた?」

「はい、本当にすみません」

 平謝りに謝る後輩を好ましそうに見つめる舞子である。

「白狐は……元気?」

「……うちのお狐さまですか?」

 意表を突かれた質問も二度目である。大分この人の突拍子の無さには慣れてきたが、油断はならない。何を言い出すのか、てんで不明なのだ。しかも非常に無邪気である。慎重に

「はい、あたしには見えませんけど、いつも清清しい感じはしますから元気だと思います」

 答えてからまた一つ、自分には『見えない』と言った時に――度忘れしていた事を思い起こした。この人とこの人の双子の姉は確か、目に見えないモノを周りにも視えるよう映し出し、退治してはいなかったか。

(この人、霊能者だったんだ!)

 今更ながら思い出す。

 寄柳に助けられたことと、白狐の印象が鮮やかで肝心の事実を念頭に置き損ねていた

(そっかあ。それで)

 自分には理解し難い部分を感じさせるわけだった。先程、舞子の身を包んだ厳しい気迫が何であるのか、腑に落ちたような気がした。舞子は、彼女らは不可視の世界に対峙して生きる者だった。いわば戦士なのだから、あの眼力も頷ける。

 そういえば去年の九月頃に、ここの生徒がLL教室の御祓いをしたとかどうとか、聞いた事がある。この人達だったのか。

(かあっこいいー!)

 インチキな霊能者ではない、正真の霊力を用いる人達だ。美佐子は現金なもので機嫌が直り、誤解が解けると神妙さも殊勝さもかなぐり捨てて正直に、その思いを口にした。舞子はくすりと笑んだ。

 美佐子は見惚れてしまった。

 屋上の風にポニーテールを遊ばせている舞子の顔は、この上なく爽やかで晴れやかで、心地が良さそうだった。彼女はこんなに綺麗だったかな、と目を見張る。

 よく見ると双子であるだけに姉の翔子とそっくりだ。しかし趣は異なり、翔子が静謐、優美ならば舞子は凛々しい華やかさを纏っている。(同じ顔立ちなのにこんなに違うものなんだぁ)と感嘆のため息が出た。

「舞ちゃん」

 その双子の姉が妹を呼んでいる。

「翔ちゃん」

 妹は溌剌と姉に手を振る。

「何?そろそろ帰る?」

 舞子に頷いて

「うん、そうしましょうか。あ、美佐子ちゃん、寄柳さんがさっき来ててね、探してたわよ」

 どことなく悪戯っぽく翔子は言う。扇姉妹にはこういう表情が実によく似合う。

「えぇ!」

 美佐子はどうしよう、とおろおろし始めた。と、ちょうど彼女の想い人が屋上の入り口から姿を見せた。慌てて寄って来る。美佐子はそれ以上に動転して頭を抱えている。「穴があったら入りたい」とまさにその気分で、きょろきょろと穴を実際に求めていた。無理もない。 

 その背が突如力強くぶたれた。それっ、と舞子が叩いたのである。

「なーに、するんですかあ!」

 振り向いた美佐子に

「ほら、さっさと行って打ち明けといで!」

 ニコッと笑んで荒っぽく、励ました。

「扇さん……」

 ――澄んだ二人分の目線が返ってきた。「がんばって」と翔子も励ましを込めてくれている。どうにも今日は喜怒哀楽が著しい。今度は、泣きそうになった。なぜだか無性に嬉しかった。

 美佐子は恐らく感知していた。彼女達ならば、もっと大きな何かを求めて他の世界に翼を広げることも出来るのに、自分達と同じ時間を過ごし、見えない処でその時間を護ってくれている。そのことを。

(このひとたちは――……)

 言葉に出来ない思いで彼女達を見つめ返す。ふたりの眼差しがひどく胸に暖かかった。

 ……とうとう美佐子は決意した。

 「はい!」と笑顔になってくるりと反転すると寄柳に向かって歩んでいった。

 ただならぬ様子に彼の足が止まる。次に来るのは喜怒哀楽の「喜」か、それとも?

 彼の目の前まで来て美佐子は深呼吸した。

 そうして、たった一言を、全霊をこめて言うべく唇を開いたのだった。

「翔ちゃん、さっきの話聞いてたの?」

 邪魔するまいと屋上を出てきた後の、下駄箱での会話である。今までの騒ぎの内容を翔子がお見通しであるようなので訊いてみたのだ。

「聞かなくても大体、見当はつくわよ」

 あれほど彼女(美佐子)、思っていることを表情に出していたんだからと、翔子は微笑する。まあ、双子の妹は気付いていなかったようであるが。

「あの子、可愛いよねぇ。なあんか、普通でさ。女の子だよね、いかにも」

 男の子のような舞子の物言いに今度は苦笑する。事実、舞子は並の男よりもはるかに『雄雄しく』快活だ。男であったらまさしく「快男児!」と称されていただろう。

「そうね」

 確かに美佐子には『普通の女の子』らしい可愛らしさがあった。

 『普通』……自分達には『普通』の生き方を続けることは出来ない。束の間、平穏な生活を送った後には常に何かと戦いに赴く。

 けれどもそれを後悔したことは一度も無いし、束の間の平坦な日々が偽りの日々だとは思わなかった。もう一度その日々へと戻ってくるために、その日々を守るために闘うのだから。

 舞子の何気ない言葉にはその思いが、あった。翔子にもあった。

 二人は瞳を合わせて微笑みあった。

「帰ろうか」

「うん、何か食べて帰ろうよ」

「いいわよ。久々にね」

「わあい」

 扇家の双子は肩を並べて談笑しながら、校門を出た。

                                                                         (完)                                       

○コメント(たわ言)

 はい。もろ番外編です(汗)。扇姉妹すっかり脇に徹しております。『伏見狐勧請戸籍譚』森居美佐子その後です。美佐子嬢はあの後寄柳先輩に告白したのだろーか?と気にかかっていたので書いてしまいました。また、平穏な生活を送っている人から見た扇姉妹が書きたかったということもあります(翔ちゃんの出番少なくてすみません(汗))。 

 これは去年、『春の先触れ』というタイトルにて、ある方のカルラ本に載せて頂いた小説を今回見直し、修正したものです。一応カルラ小説処女作ということになります(^^)。それにしても何というカタイ文体でしょう。当時(去年の3月末)はこんなにカタイ文体だったのか。読みにくいですね……。おまけに新しく考えたタイトル、長すぎるし(汗)。(SENO様、ごめんなさい)

 少しでも楽しんでいただければ幸いです☆ 

 また、以前に旧版を読んで下さった方、メールにて感想を下さった梅紫式部様、えま様、人麻呂様、森咲まゆみ様、渡橋ないあ様に、そして投稿を快諾して下さったSENO様に御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。