のどの渇きを覚えて目が覚めた。 目蓋が重い。ゆるゆるとそれを開け暗い室内に目を凝らす。首を廻らそうにも重くて動かない。開ききらない目で見えるのは剣持の家の居間。ああ、眠ってしまったんだ。 だんだん焦点が合ってきた。少しだけ視線を動かす。舞子が畳に横たわっているのが見えた。すやすやと眠っている。その手に重なるようにもうひとつの手。翔子の位置からは手しか見えないが、結局舞子と近江も酔いつぶれてそのまま寝てしまったということなのだろう。仲のいいことだ。翔子は目をつぶった。目蓋と視線を動かしただけでどっと疲れたのだ。あんなお酒、飲むんじゃなかった。 車の免許を取った舞子が運転の練習、と言って父の車を借り翔子を乗せて剣持の家までドライブに来たのは昼過ぎのことだった。舞子にしてみれば運転免許を取ったのを近江に報告するのはごく当然のことらしい。翔子だって剣持に会うのに否やはない。大学生になってからあまり会う機会がなかったのだ。二人ともゆっくり滞在したかったが、それでも舞子が、初心者だから明るいうちに帰るといっているうちに早い夕立から続く大雨になった。帰るに帰れないでいるうちに祖母から電話がかかり、この雨の中運転するくらいなら泊めてもらえ、と言う話になり飲み会になだれ込んだのだ。それだけならまだよかったのだが、雨が小降りになった頃診療所の電話がなった。 「さっきの雨で倒れた庭木を動かそうとして町会長さんがぎっくり腰になったそうです。ちょっと鍼をうちに行ってきますから。」 と剣持が出かけたのが事の発端だった。近江が大ぶりのお神酒徳利を持ち出してきたのだ。 「剣持さん秘蔵の酒、なんだけど俺にちっとも飲ませてくれないんだ。て言うか飲むなって。」 すでに少しほろ酔い加減の若者たちは素面では考えられないいたずら心でその酒を、それでもちょっとずつ飲んでみた。そしてあまりの強さに顔を見合わせ、一口で十分、と徳利をしまいに行こうとしたところに剣持が帰ってきた。 「あーっ。飲んじゃったんですか?私専用だったのに。後で大変なことになりますよ。」 とかるく怒られ 「腰が抜ける前に寝られる支度をしておしまいなさい。」 と命じられた。 「一口で腰が抜けるなんてありえない。」 舞子が言ったが真顔の剣持に逆らえるはずもなく、舞子は近江のジャージを借り、翔子はさすがに近江のジャージはなぁと思っているところに剣持が診療のときに使う作務衣を持ってきてくれた。クリーニングの袋に入ったままのそれをありがたく借り、急いで着替えた。剣持の言うとおり段々体の動きが怪しくなってきた気がしたのだ。借り物の作務衣は翔子には大きすぎ、袖をたたみ、裾も折り上げなくてはいけなかった。 「剣持さん、こんなに大きいんだ。」 つぶやいた翔子の動きがぎこちなくなったのは不用意に動くと袷が開きそうだったからか、それとも作務衣の持ち主に抱かれているところを想像したためか。 これでいつ寝てもいいから別の酒を飲む、と開き直った近江と舞子が剣持にねだり剣持も交えて飲み会が再開された。剣持は未成年の飲酒に関しては規制がゆるい。楽しい飲み会だった。が、いつつぶれたのかは記憶がない。あの秘蔵の酒の後はほとんど飲んでいないのに。 翔子は再び目を開けた。水が飲みたい。水を求めて再びさまよい始めた翔子の視線は蒼白い世界に釘付けになった。そこには月の光を浴び居住まいを正して杯を口に運ぶ男の姿があった。月と酒とその人物だけで完結した蒼白い世界。男はただただ静かに酒を飲んでいる。静かな動きは空気すら動かしていないようで、まるで一幅の日本画を見るようなそんな気がした。いっそこの世のものではない、と言ったほうが正しいのか。もともと感情を露にする人ではなかったが、今翔子の目に映る人物からは何も読み取ることはできなかった。 きれい。まず翔子はそう思った。端整な顔に流れる髪。頬の傷さえ産まれる前からそこに付くことが定められていたかのように見える。そして杯を持つ指。あれは癒し、また奪うものだ。そしていつも穏やかな言葉を紡ぐ唇。 不意にある衝動が湧き上がった。 (あの傷に触れてみたい。指先に触れてみたい。・・唇に触れてみたい) そして彼の人のあまりの遠さに悲しくなった。私はあのそばに行くことはできない。なぜなら求められていないから。そう思ったら胸が苦しくなって涙が一粒流れ出た。気付かれてはいけない。横たわって動かない体のまま翔子は涙を堪えた。しかし苦しさは募り、翔子は目をつぶった。それでもこらえ切れずに「・・っ。」と小さく嗚咽が漏れ涙がもう一粒落ちた。 そっと自分の額に置かれた手に翔子はまたゆっくり目を開けた。 「怖い夢でも見ましたか?大丈夫ですよ。ここには怖いものは入ってこられないから。」 静かな声が聞こえた。涙に濡れた目が剣持のそれと合った。無言で (どうしたんですか) と問われ返事をしようとした翔子だが口は動けど声は出なかった。 「少しお待ちなさい」 剣持は言い置いてどこかへ行ってしまった。次に剣持が戻ってきたときには小さな盆に水の入ったコップが乗せられていた。剣持はそれを翔子の枕元に置くと 「そろそろ皆さんを布団へ運びましょうか」 と言って立ち上がった。 その動きを追うために自分のものではないような重さを感じながら何とか頭を動かしてみる。 「仲良きことは美しきかな、ですけどおばあ様から預かった大事なお嬢さんですから今夜はここまでですよ。・・失礼。」 剣持が舞子を抱き上げ隣の部屋に運んでいった。布団が2組敷かれている。舞子を布団におろすと戻ってきて今度は近江の肩を揺さぶる。 「近江君、起きて下さい。自分の部屋に行って寝るんですよ。」 しかし近江は唸っただけで起きる気配もない。 「まったく、みんな揃って見事につぶれましたね。」 苦笑いしながら結局剣持は近江も抱き上げて運んで行った。 戻ってきた剣持は手付かずの水と姿勢すら変わっていない困った顔の翔子を見下ろすと、翔子の枕元に膝を付き翔子の頭をそれに乗せコップを口元に当てた。翔子が水を嚥下したのを見届けると剣持は言った。 「翔子さんも布団に運ばせてもらいますよ。私はもう少し飲みますけどね、あなたはもうお休みなさい。」 翔子の体は軽々と抱き上げられ舞子の眠る部屋へと連れて行かれそうになった。翔子は辛うじて動く首を小さく振った。剣持の足が止まった。物問いた気に見下ろす剣持。翔子は目で訴えた。まだ寝たくありません、と。 「だめですよ。思いっきり酔っているじゃないですか。」 再び剣持が歩を進めようとしたとき、翔子は自分の顔の横に垂れている剣持の髪を握って弱弱しくもはっきりと引っ張った。剣持は翔子の真剣に訴える顔と握られた自分の髪を交互に見てから、やれやれという顔をして、翔子を自分が先ほどまで飲んでいた壁際に寄りかかれるように座らせ自分はその隣に座った。髪を握っていたはずの翔子の手は簡単に解かれてしまった。翔子は少しさびしくなった。 「ああ、いい月になりましたよ。」 雨はいつの間にか上がっていた。やはり夕立だったのだ。月が明るい。剣持の声につられて翔子は月を見ようと顔を上げた。そのとたん、ずるずると翔子の体が滑った。借り物の大きな作務衣は腹の上までずり上がり背中につめたい畳の感触があたった。そして広かった袷も開き片方の肩が月の光に晒された。白い肩にブラの肩紐がさらに白い。そして頭は再び剣持の膝の上、である。恥ずかしいことこの上ないが、翔子にはぎゅっと目をつぶって首を振る以外なす術がなかった。何しろ体は手と首が少し動くだけであとはまったく思うようにならない。剣持は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに翔子の作務衣を整え、いつもののほほんとした口調で 「言ったでしょう、腰が抜けるって。」 と言った。 翔子は恥ずかしさを通り越して腹立たしくなった。何もないとわかっていても会うときには下着まで吟味する女の子の気持ちは、わからないでしょうね。見えたのなら他の反応はないの?!いつまで子ども扱いするんですか。目をつぶって心の中で文句を言い続けているうちにすっと体が引き寄せられ、ふわりと浮いたかと思うともう一度座らされた。こんどは剣持の腕の中である。頭を剣持の胸にもたれさせ、頼りない腰には剣持の腕が回っている。翔子の心臓が大きくひとつ鳴った。体の反応に一瞬遅れて頭が反応した。何がおきたのかわかったところで顔が赤くなった。剣持に赤い顔が見えただろうか。月明かりだけだから、大丈夫と自分に言い聞かせて翔子はそっと視線を上げた。直に伝わってくる剣持の鼓動は少しの乱れもなく、再び飲み始めたその顔からは、うまい酒に満足していると言うことしかわからなかった。自分のこの動揺ぶりと剣持の落ち着き振りがやたらと口惜しい。 剣持の横に置かれているのはよく見るとさっきの酒である。視線に気付いて剣持が教えた。 「これはね、護法童子がもってきてくれる特別な酒なんです。だから、ほかの人にはちょっと強すぎる。」 翔子は納得した。 この人はこれを飲んでも酔わないのか、それとも酔えないのか。酒を飲み続ける剣持を見上げ翔子はそう思った。 鼓動が少し落ち着くと翔子は少し大胆になった。やはり酔ってはいるのだろう。先ほど手から離れた剣持の髪を辛うじて動く自分の指に絡めてみたり、自分の腰を支える大きな手に自分の手を重ね、その長い指に自分の指を絡めてみたり、翔子は自分の手が動く範囲で先ほどの衝動を満たした。剣持は時折くすぐったそうな顔をしながらも逃げることなく翔子にされるがままになっていた。 どれくらいの間そうしていたのか、剣持はゆっくり飲み続け翔子はその腕の中で友人たちとの会話を思い出していた。大学に入ってGWが過ぎ学部の中の数少ない女子は当然のように親しくなった。そしてある日その中の1人が恋人と旅行に行ったと告白したのだ。盛り上がったのはいうまでもないが、経験のない乙女たちの興味は一点に絞られ、経験済みの友人が眉をひそめ発した「すっごく痛かった。あんなの好きな人とじゃなくちゃ耐えられない。」の一言に尊敬と羨望の眼差しを送ったのだった。そのとき翔子の脳裏をよぎったのは間違いなく、今自分を抱いて酒を飲んでいるこの男の顔だった。自分に破瓜の痛みをもたらすのはこの人であって欲しい。この人に与えられる痛みなら自分は喜びを持って耐えるだろう。翔子はそう思ったのだった。そしてそれは今も変わらない。 「それで、何を泣いていたんです?」 不意に剣持が言い腕の中の翔子を柔らかく見つめた。翔子の中に先ほどの感情が蘇った。胸が少しだけ痛い。 「あ・んまり・・綺麗で、悲しかっ・・たから。」 ささやくような声で途切れ途切れに何とか答えた。 「何が?」 同じくらい静かな声が再度問うた。翔子は答えず代わりにその手がゆっくりと力なさ気に、でも迷いなく剣持の顔に伸ばされた。頬傷に指先が触れる。剣持が少しだけ目を細めて翔子を見ている。 「私の心配をしてくれていたんですか?翔子さんは優しいですね。」 剣持の出した答えは翔子のそれと違っていて、翔子はそうじゃない、ちゃんと伝えなくてはと強く思った。声を出すのは難しく、なんと言えばいいのかはさらに難しかった。 「違・・ます。」 優しい表情のまま少し首を傾げる剣持に対し意を決して翔子は次の言葉をつむぎ始めた。 「私・・剣持さ・・んの・・こと・・」 次の声が出される前に剣持の長い人差し指が翔子の唇をふさいだ。少し困ったように微笑んだ剣持はそれでもはっきり言った。 「そこから先は口に出してはいけません。」 口調は優しかったが反論を許さないものだった。 「立場と状況を考えて御覧なさい。あなたはカルラ神教の38代目で、いずれお婿さんをもらわなければいけない身でしょう。そういう人がね、酔っ払ってこんな男に不用意な発言をしてはいけません。」 翔子の目が剣持を強く見返した。 「私があなたを奪ってしまったらどうするんです?少しは警戒しなくては。」 続ける剣持に翔子は視線で訴えた。いっそ奪ってください、と。けれど剣持は気付かぬふりで静かに続けた。 「貴女にはご家族みんなに祝福されて神が嘉し寿ぐ新床で伴侶となる人と結ばれて欲しいのですよ。鍼医剣持司ならそれもいいでしょう。百歩譲って陰陽師剣持司でも何とかなるかもしれない。でも、闇の死操人は絶対だめです。38代目の相手にふさわしくない。」 翔子はその言葉に真実の響きとそして同時に、隠そうとして隠し切れない悲しみも感じとった。いつもの剣持ではない。この人が自分の持つ悲しみを片鱗たりとも人に感じさせることなどかつてなかった。剣持とてもあの酒で酔っているのかもしれない。その表情からは痛みに耐えていることがわずかに、でもはっきり見て取れた。翔子は剣持の言わんとすることを理解した。心情の問題ではないのだ。 小さくとも教団には信徒がいる。教主たる身は皆の納得する伴侶をえらび教団の安定を図る義務がある。 この人はなんと大人で、なんと残酷なのか。翔子の理性は剣持の言葉を受け入れた。しかし感情はまったく逆だった。自分の中の整理しきれない思いに涙があふれ出た。呼吸が乱れる。 唇に当てられていた指が目じりの涙を拭う。剣持の長い髪によって月が翳った。翔子の唇に剣持のそれが重なった。驚いて翔子の息がとまった。静かな触れるだけの口付け。ただ思いの深さを伝えるだけのものだったけれど、翔子にはそれで十分だった。翔子は目を閉じた。触れたかったんじゃない。触れて欲しかったんだ。随分長い時間そうしていたような気がした。剣持が翔子から離れたとき翔子の目からは涙が消えていた。 「私が自分に許せるのはここまでです。」 剣持がそう告げた。痛みも悲しみもすべて隠した静かな声が続けた。 「おやすみなさい。そして今夜のことは忘れておしまいなさい。」 この人が全てを隠していくのなら私も、と翔子はある決心を隠して小さくうなずいた。剣持が自分と同じ気持ちを持っていてくれるならどこかに道はあるはずだ。剣持によって封印された言葉を紡ぎ出せる日が来るようにそれを探そう。なければ創ればいい。今ではない。でもいつか必ず。翔子は自分に言い聞かせながら剣持の腕の中で再び目を閉じた。 眠ってしまえばあとは剣持が運んでくれるだろう。もしかしたら朝まで抱いていてくれるかもしれない。そして朝になったら何もなかったように振舞うのだ。口に出したらきっと酒のせいで夢を見たのだとはぐらかされるだろう。でも、絶対忘れない。今夜のこの月光の下の二人きりのささやかな宴を。あの触れるだけの深い口付けを。翔子は不思議と幸せな気分でゆるゆると眠りに落ちた。 |