午前中の講義が終わると翔子は大急ぎで講義棟を後にし、図書館へと急いだ。待ち合わせなのだ。遅れては失礼、というより少しでも早く会いたいというのが本音だ。しかし今日の待ち合わせはデートではない。と言うより、デートする間柄ではないのだ。会えるのはうれしいけれど、それを「デート」と呼ぶためには越えねばならない壁がある。その壁は思いのほか厚くて高い、最近そんな気がしている。 いつ頃からか剣持に合う回数がぐんと減った。舞子が近江に会いに大船の剣持宅へよく行っているからそれなりに剣持情報は入ってくるのだが、剣持に呼ばれてもいないのに舞子に付いて家まで行くのも躊躇われ、用もないのに電話をするほどの勇気もない。正直自分の気持ちをもてあましている毎日だった。だから夕べ母に「翔子電話よ、剣持さんから。」と呼ばれたときには一瞬心臓が止まったかと思った。 剣持の用件は、翔子の通う大学の図書館を利用したいのだが外部の人間は在学生か教員に身元保証書を書いてもらわないと利用ができないのでそれを翔子に頼めないか、というものだった。もちろん断る理由はない。二つ返事で引き受けた後、翔子はなかなか寝付けず、それならばいっそ、と起きだしてこれまでにない位、洋服選びに時間を費やした。 図書館に入るとカウンターで書類を書いている剣持の姿が目に入った。この大学は宗教系の大学のせいか丸坊主の学生も多いが、逆に長髪の男子学生や教官もけっこう目にすることがある。しかしそれがかっこよく見えたことはなかった。剣持ほどあの髪型が似合う男もいないだろうな、と思う。いったいあの人はいくつのときからあの髪型なんだろう。そんなことを考えながら剣持に近づくと気配に気付いたのか剣持が翔子のほうを見た。そして少しだけ間をおいていつもの柔らかい笑顔で 「お久しぶりです。すいませんね、お忙しいのに。」 と言った。 「こちらこそご無沙汰しています。どうぞお気になさらずに。大したことじゃありませんから。」 翔子はそう言いながら少しだけ、視線を下げた。なんだか気恥ずかしくて目を合わせられない。 そんな気持ちを知ってか知らずかそれ以上の話をすることなく剣持は用件を切り出した。 「早速ですけど、これをお願いします。」 剣持が差し出した紙には「図書館利用カード発行申込書(外部)」と言う字が印刷されていて、上のほうの欄にはすでに剣持の氏名住所などが書き込まれていた。下のほうには保証人記入欄があって、司書がつけたであろう鉛筆書きの丸があった。翔子は自分の名前と学籍番号、学部など丸の付いた欄に必要事項を書き込み、最後に続柄の欄で手を止めた。選択肢は「1.家族」「2.共同研究者」「3.その他」の3つしかない。翔子は少し考え3.に丸を付け後ろの括弧に知人と書き込む。まさか、同業者とも書けないだろう。ましてや片思い中などと。書きあがった紙を剣持に渡すと剣持が「すいません、」とカウンターの奥のデスクに向かって声をかけた。銀縁メガネの30歳前くらいの女性司書が出てきた。そしてにこやかに 「書けましたか?」 と言いながら剣持に微笑みかけた。その表情を見て翔子はまずい、と思った。 その女性司書は「伊達さん」と呼ばれる図書館の名物司書であった。ちなみに本名は「伊達」ではない。けっこう綺麗な人である。しかし図書館の常連によると「伊達さん」は綺麗といわれるより知的に見られることを好みダテ眼鏡をかけているから「伊達さん」なのだそうだ。そして「伊達さん」は図書館内での男女交際に厳しく、「伊達さん」がカウンターに出ている日に図書館デートをした学生は「伊達さん」の呪いで必ず破局するという、いわば都市伝説まで囁かれているのだ。実際、面食いらしく美形男性には親切であり、ちょっとかわいい女子学生には図書館利用上の不利益が若干生じているようだ。 どうやら、剣持は「伊達さん」の好みど真ん中だったらしい。もし、これで翔子が剣持の恋人だと思われたら、目当ての書物が出してもらえないかもしれない、それ以前に図書館利用カードが発行してもらえない事態になったら・・。それだけは避けたかった。「伊達さん」はちらりと翔子を見て書類に視線を戻すと先ほどとは打って変わって厳しい声で言った。 「この知人って言うのは?ここの書籍は古いものや貴重品希少品が多いから、ちゃんと身元保証された方でないと利用は認められないんですよ。この前もコンパで1週間前に知り合ったなんていう相手を紹介してきた学生がいましたけど、利用はお断りしたくらいです。」 翔子の心配したとおりだ。翔子はあわてて 「いえ、知人と言っても身内のようなもので・・。祖母の代から家同士のお付き合いのある方で、・・そう、兄妹みたいなものなんです。今日だって、夜はうちで一緒にご飯を食べるようにっておばあちゃんに言われているんですよ。ね、司おにいちゃんっ。そうよね。」 と言いながらカウンターの下で剣持をつついた。翔子の引きつった笑顔に剣持もなんとなく事情を察したのか 「え、ええそうなんです。この子とは子どもの頃からの知り合いでして、この子が赤ちゃんの時にはミルクを飲ませてあげた仲なんです。ね、翔子ちゃん。」 と話を合わせ「伊達さん」ににっこりと笑ってみせた。翔子は内心「ミルクって・・。」と思ったが、剣持の目は作った微笑みとは裏腹ななにか懐かしむような色を含んでいた。 「伊達さん」は二人が恋人同士ではないと判断したのか、剣持の図書館利用を望んだのかはわからないが図書館利用カードを発行してくれた。そして剣持の指定した書籍は貴重品リストにあるので特別閲覧室からの持ち出し禁止、コピー不可、であることを説明し特別閲覧室へ案内してくれた。 コピー不可、と言うことは剣持も予想していたらしく 「やはり丸写しだったかぁ。」 と残念そうな声を上げた。 「写すだけなら私もお手伝いしましょうか?」 翔子は申し出てみたが剣持はしまった、と言う顔をして断った。 「いえ、ここまでしていただいたからもう十分ですよ。ありがとうございました。貴女はまだ午後の講義があるんでしょう?」 そしてまだ言い募る翔子に言った。 「本当は調べ物をしていること自体知られたくはなかったのですよ。お願いしておいて勝手な言い分ですが、どうか貴女はこれ以上関わらないで下さい。」 翔子はこれが死操人の仕事であり剣持はそれに翔子が関わることを避けたがっているのだと悟った。そうなれば引くしかない。 「わかりました。でも、さっきの話、おばあちゃんが夕飯を一緒に、って言うの本当ですから今夜家に寄ってもらえませんか?」 と誘った。剣持はそれを了承し、特別閲覧室の閉まる6時に翔子が迎えに来ることになった。 午後の講義の間中、翔子は何かもやもやした気分で過ごした。自分と舞子がのんびり学生生活を送っているときに剣持が裏の仕事をしている。しかしそれは自分には「関係ない」ことなのだ。たとえ剣持が怪我をしても自分は知ることすらできない。以前軽いものではあったが剣持が怪我をしたことがあった。舞子は近江経由で知っていたのだが、翔子が剣持と連絡を取り合っていると思い込んでいて、翔子には何も言わなかった。しばらくして「いつお見舞いに行くの?」と訊かれて初めて知ったのだった。それは結構なショックであった。そのことがあってから翔子は自分と剣持との名前の付かない関係にもどかしさと焦りのようなものを感じるのだった。 そしてもう一つ、自分が司書をだますために発した「司おにいちゃん」と言うことばと剣持が躊躇いなく返した「翔子ちゃん」と言うことばが妙に引っかかる。剣持はいつも「翔子さん」と呼ぶ。自分だって始めから「剣持さん」である。それなのにどちらも言ったことがあり、聞いたことがあるような奇妙な感覚なのだ。ずっと考えたのだが、結局何もわからないまま午後が過ぎていった。 約束の時間に図書館へ行くと剣持と「伊達さん」がカウンター越しに話をしていた。翔子は剣持が他の女性と一緒にいる場面を初めて見たことに気付いた。落ち着いたいい雰囲気に心臓がぎゅっとなる。 その時翔子に気付いた剣持が伊達さんに挨拶をし、翔子のほうにやってきた。 「伊達さんと仲良くなったみたいですね。良かったじゃないですか、これからここの図書館利用するときは優遇してもらえますよ、きっと。」 翔子は思わず口にした。仕方ないじゃない、裏の仕事のことは聞けないのだから他にはなにも言うことがないのだもの、と自分に言い訳してみたが、少しだけ悋気がにじんだ声だった。 「仲良く、ってわけじゃありませんけど、親切な方ですね。結局今日一日で終わらなかったから明日も来なくてはいけなくなりました。それで、明日の朝一番でまた準備してもらえるように頼んできたんです。」 剣持は翔子の口調に何か感じたのか事情を説明してくれた。そして 「お世話になりついでに、この辺にビジネスホテルがあったら教えてください。家に帰って明日出直すのは時間のロスが大きいので。」 と言った。翔子は少しむきになってと言った。 「じゃ、うちに泊まればいいじゃないですか。知らない家じゃあるまいし。第一おばあちゃんが夕飯を一緒に、って言ったらその後の晩酌もセットでしょ。お母さんだって朝から客間の用意をしていましたよ。」 剣持が扇家に泊まるのは初めてではない。何度も泊まっているのだから今日も当然そうだと思っていた。会う機会が減っていることと言い、剣持が意図的に自分との距離を置こうとしているのではないかと感じて不安になる。しかし剣持はいつもの屈託ない調子で、じゃ、お世話になっちゃおうかな、などといい扇家に泊まることになった。 駅から扇家まで間二人は取り留めのない話をしながら歩いた。表面上はいつも通りにしていた翔子だが昼間からずっと「司おにいちゃん」「翔子ちゃん」が引っかかっている。加えて剣持の仕事も気にはなる。剣持と「伊達さん」の大人な雰囲気だって気持ちをかき乱すのだ。自分で自分の感情がコントロールできずにイライラする。追い討ちをかけるように嫌な空気を感じた。目を向けるといつも通るT字路のごみ収集所に悪い念が固まっているのが見えた。場所柄、というのだろうか、危険というほどではないが気に障る、そんなものがいつの間にか吹き溜まる様に集まってくる場所なのだ。翔子は幼い頃からそこが苦手だった。今でこそその念を散らすことも無視することもできるのだが、小さい頃は恐ろしかった。そのトラウマが翔子の気をさらにいらだたせる。その時 「いつ通っても何かしら溜まってますねぇ。ここは。」 剣持はそういうと何の前触れもなく気を発して溜まっていた念を散らした。剣持の力を持ってすればどうということもないのだろう。ほんの一瞬で空気が軽くなり呼吸が楽になる。いらだっていた気分がそっと撫でられ落ち着くような感覚だった。そのことが記憶を刺激する。前にもこんなことがあったような・・。しかし考える暇もなく剣持が 「さあ、行きましょう。」 と歩き出し翔子はあわてて後を追った。 不意に剣持が振り返り 「翔子さん、図書館で『祖母の代から家同士の付き合いがある』っておっしゃったけど、よくご存知でしたね。おばあさんに聞きましたか?」 と問うた。剣持の急な質問に翔子は一瞬返答に詰まった。質問の意図が判らない。 「いえ、それ本当だったんですか?私、急に思いついて出まかせを言ったんですけど。剣持さんとおばあちゃんが知り合いだったから大嘘でもないか、と・・。」 翔子は正直に答えた。 「ああ、そういうことでしたか。まあ、家同士というのは大げさですけどね、私の祖母と貴女のおばあさんは昔なじみだったそうですよ。」 苦笑いしながらそれだけは教えてくれた。 剣持は扇家で歓迎を受け一家と夕食を共にした。そしてその最中に舞子に頼みごとをした。 「近江君に電話するときに私が今夜こちらにご厄介になると伝えておいてもらえますか?」 電話をかける前提の話である。しかし舞子と近江のことはすでに一家の中でも公認であって舞子もなんで私が、とかわざわざ電話するの?なんてことは言わずに引き受けた。翔子は舞子達を温かく見守っているつもりだが、理由がなくても電話していい間柄に羨ましさを感じる。私も話ができたらいいなぁ、と思いつつなにも言えないでいると剣持は晩酌に誘う千景を「今日写してきた分を解読してしまいたいので」と振り切り客間に篭ってしまった。千景も剣持の仕事を察したのかいつものように強引に誘いはしなかった。 そして1人で飲み始めた祖母に翔子はお茶を飲みながら付き合った。昼間から引っかかっている件の答えを祖母ならば知っているだろうと思ったのだ。翔子は切り出した。 「ねぇおばあちゃん、おばあちゃんは剣持さんを子どものころから知っているのよね?私たち子どもの頃どこかで会ったことある?」 祖母は片方の眉だけ上げて答えた。 「あるよ。司を故郷から連れ出した後何日かここに泊めたでな。それと、わしと司が奈良で仕事をした後も連れてきたっけな。」 初めて聞く話に翔子は目を見開いた。 「それって私がいくつのとき?」 「そうさなぁ、初めのときは二つになる前くらいか。次のときは四つか五つくらいだったか。お前も舞子も、じき二つになるというのに哺乳瓶の離せない甘えん坊だったんだぞ。少し大きくなったところで手はかかったしな。どっちのときも朝子が育児疲れしとって、ここぞとばかりに司に子守りをさせとった。二人ともよく懐いたからな。」 となると図書館でのミルク発言は本当だったということか。あまりにあっさり事実が判明して翔子は拍子抜けした。しかしよく考えてみれば奈良の池田邸で会ったとき、翔子が名乗る前に「君、扇のおばあさんの孫だろう。」と剣持は言った。なぜ、会ったことがある、と言わなかったのかはわからないが。 「おお、いろいろ思い出してきたぞ。」 祖母の楽しげな声に翔子は祖母に注意を向けた。祖母は司少年と幼い双子のエピソードを幾つか話してくれた。 「特にお前は『司おにいちゃん、司おにいちゃん』っていって司にべったりでな。お前は散歩が嫌いだったのに司とだけは行きたがって、朝子が驚いとったっけ。」 千景は笑いながら言った。 「散歩!!。」 翔子の頭の中に不意に記憶が蘇った。そうだ、さっき思い出しかけたのはこれだ。 4,5歳の頃翔子は母が自分たちを連れて行くいつもの散歩コースが怖かったのだ。あのT字路のごみ収集所を通るから。朝子も舞子もそこに何もいないかのように通っていく。それなのに自分だけが足を竦ませてしまう。怖いのとそれを誰もわかってくれないのとでそこに行くのが嫌だった。そんなある日おばあちゃんの連れて来たお兄ちゃんが一緒に散歩に行ってくれた。男の子なのに髪の毛が長くて、でもちっとも変じゃなかった。そうだ、お兄ちゃんはあのT字路に差し掛かると歩みの止まった翔子をかばうかのように前に立ち、何か呪文みたいなものを唱えてくれた。そうしたら怖いものが消えてなくなったのだ。翔子はビックリしてお兄ちゃんの手に掴まった。お兄ちゃんは驚いた顔をしてからにっこり笑ってぎゅっと手を握り返してくれたのだった。そのまま手をつないで帰ってきたっけ。それから毎日散歩に連れて行ってもらった。お母さんがわかってくれない事もお兄ちゃんはちゃんとわかってくれて、すごく嬉しかった。そして怖いものを見て不安定になったときには抱っこもしてもらった。 そんな日がずっと続くと思っていたのにある日昼寝から起きたらおにいちゃんはいなくなっていたのだ。あの時は悲しかった。 「あのおにいちゃん、剣持さんだったんだ。」 そういえば、ここ数年時折あのごみ収集所が妙に「きれい」になっていることが あった。そう、まるで今日のように。 考えてみればそれは奈良の事件で姉妹と知り合いになったあと剣持が扇家に出入りするようになってからだ。剣持は昔のことを覚えていて扇家にくるたびにあの場所をきれいにしてくれていたのだろうか。翔子のために。すでに翔子にとってあの場所は脅威ではないのだけれど、剣持はずっと「司おにいちゃん」でいてくれたのだ。なにもいわずに翔子を守ってくれていたのだと思うとなんだか胸の辺りが暖かくなる。素直に嬉しいと思う。もっと他に思い出せることはないだろうか。 「思い出したか。」 千景の声がした。お見通し、という感じである。 「うん、でもなんかもっと違う記憶がありそうな感じ。今思い出そうとしているところ。」 翔子がいうと千景がふいに訊いた。 「お前たち今度いくつになる?」 「やだ、おばあちゃん。二十歳よ、ハタチ。この間、成人式に振袖がどうこうとか言ってたでしょ。」 翔子の答えに千景は含み笑いの顔で 「ほう。」 と言った。 「なあに、おばあちゃん何かあるの?」 「何、お前もそろそろ嫁に行く歳かと思ってな。」 千景のしゃべり方はなんとなく翔子をからかっているように聞こえる。 「何言ってるのおばあちゃんたら。まだ早いわよ。だいたい嫁き先だってないのに・・?」 千景のことばに触発されて翔子の記憶がもうひとつ蘇った。 「・・・あったかも。嫁き先」 翔子は記憶が消えないようにそっと思い出す。 あれは幼い翔子が司少年との散歩から戻ったときだった。 「おばあさん、翔子ちゃん視えてるみたいだ。」 司少年がそう千景に告げた。 「おや、司には判ったかい。そうなんだよ。でも視えるだけでまだ散らせないんだ。修行しないとね。ただ、そういう力は舞子のほうが持っているみたいだからこの子がどこまで出来るようになるか、まったくわからないんだよ。」 「そんなの可哀相だ。ずーっと怖い思いをするかもしれないってことでしょう。」 司少年の声は真剣だった。そして翔子に向かって心配そうに言った。 「僕が守ってあげられればいいんだけど、じきにいなくなるし、翔子ちゃんはがんばって修行するんだよ。」 その不安を和らげるように千景が言った。 「舞子と一緒にしておけば当面は大丈夫だよ。」 「でも大人になったらそうもいかないでしょ?」 司少年はなおも心配している。 「そうなったら誰か力のある者に嫁にやって守ってもらうかな。」 千景は笑いながら言った。そこで翔子は嫁ということばに反応し 「翔子、司おにいちゃんのお嫁さんになる。」 と言ったのだ。 「えっ?」 司が驚いた声を出し、千景は 「おお、そうしてもらえ、翔子。どうだ司、翔子を嫁にするっていうのは。」 といい 「あら、いいわね。司君、大きくなったら翔子をお嫁さんにしてあげて。それでうちの子になってね。」 と母、朝子までが司少年に迫ったのだった。大人たちは半分冗談のつもりだったのだろうけど、生真面目な司少年は狼狽した。 「いえあの、ぼく、えっと」 そしてそれを見ていた翔子は 「お兄ちゃん、翔子のことお嫁さんにしてくれないの?翔子のこと嫌い?」 と泣き出したのだ。そして、自分が泣かせたと責任を感じた司少年は 「嫌いじゃないよ。じゃ、じゃぁ、翔子ちゃんが二十歳になっても守ってくれる人が必要で、でも見つからなくて、それで僕のこと覚えていたらお嫁さんにしてあげる。それならいいでしょ?」 と言って翔子をなだめようとした。 「司、逃げたな。いかにも男のやりそうな逃げ方だ。」 千景は面白そうに笑ったが翔子は真剣に問うた。 「覚えていればいいの?そうしたらお兄ちゃんのお嫁さんにしてくれる?」 そして司少年は翔子の顔を見て優しい顔で 「うん。」 と言ったのだ。翔子は急に心配になり訊いた。 「忘れちゃったらどうしよう。」 「そしたら思い出せばいい。」 それが司少年の返事だった。 懐かしく、温かい気分になる。そんなことがあったのだ。今にして思えば微笑ましいものであるが幼い自分と剣持が愛しく思える。 「剣持さん、覚えているのかしら。」 「覚えとるだろうよ。あの辺を時々きれいにしとるのは司だろう?」 「覚えていても、子どもの頃のことだからってなかったことにされそうだわ。」 「翔子は司が好きか?」 千景が直球で訊いてきた。翔子は今の自分の気持ちにちゃんと向き合いたかった。だからごまかしはしなかった。 「うん。そうなんだと思う。でも、剣持さんがどう思っているかは判らないの。大事にしてもらっているのは確かよ。だから嫌われてはいないと思うけど、今の話じゃ兄妹のような気持ちなのかな。もしくは同類に対する気遣いか。なんか、私の気持ちを知っていて、恋愛方向へ行かないようにしたがってる感じ。最近は距離を置きたがっているのかも、って思うもの。」 「まだ逃げておるのか、司は。男のくせに情けない。」 「無理なのかなぁ。」 何が、とは言わなかったが千景は 「お前まで逃げることはないだろうさ。さて、わしはもう寝る。後で司に茶なり酒なり持って行ってやれ。」 と言った。 翔子は一旦自室に戻ると作為的でない程度に化粧を直してからお茶の準備をした。そして客間の襖越しに剣持に声をかけ、中に入った。卓袱台の上には何枚もの紙と巻物や書物が広げられ、その上にさりげなく新しいノートが伏せられている。翔子はそちらに目をやらないようにしてお茶を淹れた。卓袱台が使えないので部屋の隅にあった文机を移動させテーブル代わりにする。小さい文机を間に向かい合って座る。 「眠気覚ましに渋いお茶をどうぞ。頭の栄養に甘いものもちょっと持ってきました。」 「すいませんね。ご厄介をかけてしまって。でもありがたい。さすがにちょっと休憩したくなっていたところですから。」 剣持はそう言うとお茶をすすった。 「あぁ、うまい。」 「だいぶお疲れみたいですね。司おにいちゃん。」 「・・なんですか、いきなりお兄ちゃんって。」 「小さいときのこと、何で今まで何も言ってくれなかったんですか?」 剣持の動きが止まった。少し間をおいた後視線を落としさらに考えて剣持は口を開いた。 「うーん。他意はなかったんですけどね。あのちっちゃな二人が今の貴女方と重ならないんですよ。奈良で翔子さんに会ったとき、すぐに貴女だとはわかったけれどあんまり大きくなっていたから正直驚きました。本当に、はじめまして、という気分でしたよ。そして貴女方がもう立派な術者として独り立ちしたことがわかりましたからね、昔の事を持ち出して兄貴面するのは失礼というものでしょう。それにしてもよく思い出しましたね。」 「今日図書館で私が司おにいちゃんって呼んだとき、剣持さんすぐに翔子ちゃんて返したでしょう?それが引っかかって午後中、いえ、ついさっきまで考えていました。」 「そうですか。思い出しましたか。」 剣持は確認するかのようにもう一度言うと再びことばを切ってお茶を口にした。そして翔子の顔をまっすぐ見て 「本当に、大きくなりましたね。」 しみじみと言った。 「じき二十歳になるんですよ。もう子どもじゃありません。」 「そうですね、もう子どもじゃぁないですね。だから貴女はもう自分の部屋にお戻りなさい。いいお嬢さんがこんな時間に男のいる部屋に長居するのはよろしくないですよ。」 剣持は諭すように言った。また逃げる、と翔子は思った。そして 「子どもだったらいいんですか?」 逃げた剣持にいやみのひとつも言ってやりたい気分で翔子は言い返した。 「子どもだったらとっくに寝てなくちゃいけない時間ですよ。」 剣持がやんわりと返す。翔子はもっと何か言ってやりたかったのだけど眼に入った卓袱台の上のノートが口を閉じさせた。なんとか気分を抑制する。 「わかりました。もう戻ります。」 翔子は立ち上がり、剣持も立ち上がって襖のところまできた。そして向かい合う形で見上げた翔子に「おやすみなさい。」と言った。昔司おにいちゃんが言ってくれたように優しくて、でも間違いなく大人の男の声だった。その声に抑制しかけた感情がどうしようもなく波立つ。切ない、というのはこういうことなのだろう。感情の揺れはすでに自制の域を超えようとしている。そして今夜の翔子はそういうときにどうすればいいのか知っていた。それを実行してはいけないだろうか。翔子の心はそれをよしとした。 そして翔子はそっと剣持に腕を回した。剣持の体が強張った。視線を上げて剣持を見る。そしてこの剣持の表情を今日どこかで見た、と思った。図書館で会った時だ。挨拶する前に一瞬、こんな表情をした。なんと言ったら良いのだろう。その眼には翔子に対する厭わしさは微塵もない。そこにあるものは全く違うものだった。 「イライラしたり、怖かったり、泣きたかったり、自分で自分をコントロールできなくてどうにもならないとき、司おにいちゃんは私のこと抱っこしてくれましたよね。」 剣持の体から力が抜けた。その口から溜め息なのか笑いなのかわからないような声が漏れ、その手が優しく翔子の背中に回る。剣持の胸に顔をつけて翔子は音を立てないように深く息をはいた。 「小さい翔子ちゃんは見たくもないものが見えてしまって神経質な子でしたよ。朝子さんや舞子さんにわかってもらえないのも辛かったのでしょうね、短い間でしたけど私がこの部屋にいるときに、よくこうやって私に抱っこをせがみに来ました。それでね、こうしてあげると落ち着いてよく寝たんです。」 大きな手が髪から背中を撫でる。波立っていた気持ちが静かに凪いでいく。 「まさかその子がこんなふうになるとは思いもしませんでした。今日、図書館で久しぶりに会ったら化粧をするようになっていて、正直戸惑いましたよ。あんまりきれいになってしまって私の知っている翔子さんじゃ、ないみたいだった。でも大人になったような顔をするかと思えばこうやって子どもじみた真似もする。困ったお嬢さんだ。私にはどうしていいかわかりませんよ。」 そして剣持は一回だけぎゅっと抱きしめると翔子を離した。そうだ、いつも最後に1回ぎゅっと抱きしめてもらうのがお約束だった。そしてもうひとつのお約束。 「!!。」 剣持の首に手を伸ばし引き寄せると、翔子はその頬にキスをした。 「<お礼のちゅー>です。」 剣持がうろたえる。翔子は内心やった、と思った。これは母が小さい翔子に教えたのだった。お兄ちゃんに何かしてもらったらお礼にちゅーしなさい、と。 「そんなことまで覚えていたんですか?」 「はい。」 翔子はにっこり笑った。なんだか今日のイライラがウソのようにすっきりして満たされた気分にすらなっている。その顔を見て剣持が言う。 「さ、もう大丈夫でしょう。今日は夕方から貴女の気が荒れていたから、気にはなっていたんです。落ち着いたんなら本当にお戻りなさい。お世話になっている家でそのお嬢さんに不埒なまねをするわけにはいきませんからね。」 剣持にはちゃんと分かっていたんだ。翔子はおとなしく退散することにした。 「はい。おやすみなさい。考えすぎて煮詰まったらまた抱っこしてもらいに来ます。」 翔子はいたずらっぽく言った。 「小さい翔子ちゃんにしかしてあげません。あなたはこれで卒業です。」 「じゃ、まだまだ当分は子どもってことにしておいて下さい。」 剣持は自分の頭に手を当て、心底困ったようにポーズを作って返事をした。 「ああ、私も思い出しました。貴女は小さいときから言いだしたら聞かない情の強いおちびさんでしたよ。そして何より困ったことに、そんな貴女に私は勝てたことがないんです。」 二人は顔を見あわせてくすくす笑った。 自室に戻った翔子は電気を付けずベッドに座った。二人の間の壁が少し低くなったのかどうか、それはわからないけど焦りはいつの間にか消えていた。 カーテンを少し開けると客間の飾り窓から明かりがもれているのが見えた。どうか危険な仕事ではありませんように。仕事からは逃げない人だから、また怪我をするかもしれない。近江君や錦織さんに情報を流してくれるように頼んでしまおう。少しくらい冷やかされたってかまうものか。剣持に何かあったら駆けつけて大きい顔で世話を焼いてやるんだ。そして二十歳の誕生日になったら、あの約束をちゃんと覚えています、と伝えよう。剣持は驚くだろうか、それともそんなことは承知だろうか。そこから先はまだわからないけど、きっと何かは変わるだろう。翔子はそんなことを考えながらもう一度客間の明かりに目をやった。そしてそれに向かって「思い出せばいいって言ったのは司おにいちゃんなんですからね。」とつぶやいた。 |