追憶の果て 

梅花


 金曜日の夜、翔子の携帯に剣持から電話がかかってきた。珍しいこともあるものだと電話を取った翔子の耳に剣持のすまなそうな声が聞こえてきた。
「お誘いしておいて申し訳ないのですが、明日のデートはキャンセルしていただけませんか。ちょっとはずせない用事ができてしまったので。」
 そう、デートである。剣持と翔子の関係が、お付き合いという形になったのはしばらく前のことだったが、二人で出かけた事はまだ片手で数えられる程であった。そしてたまには出掛けましょうか、という剣持の提案で明日は美術館へ文人画展を見に行くことになっていたのだ。せっかくのデートのキャンセルである。本来ならば、楽しみにしていたのに、と少し拗ねて見せてもよかったのだが、今日の翔子は
「わかりました。私はかまいませんから、どうぞ気にしないで下さい。」
とあっさり承諾した。
「まだ会期はありますから、日を改めて出かけましょう。」
 剣持はそうフォローし、翔子は「はい。」とだけ返事をして電話を切った。
 残念と言う思いではなく、ちょっとばかりほっとした気分になっている自分に気付き、翔子は顔を歪めた。その視線の先には壁にかかったカレンダーがあった。

 翌日予定のなくなった翔子は朝から自分の部屋に篭ったままだった。翔子の脳裏に浮かぶのは今日会えなくなった恋人ではなく、何年か前の今日、瀬戸内の海に散った少年だった。淡い恋心を抱き、裏切られたにもかかわらず恨む気にはなれない相手。翔子にとって今日すべきことは一つだけ。それは故人を悼むこと。
 今となっては痛みは薄れ、ただあの時は悲しかったと言う思いだけがあった。それは年々薄れていくかに思えたが、始まりかけてきちんと終われなかった恋はまだ忘れることができなかった。毎年この日、翔子はそれを思い知らされるのだった。
 そして剣持と付き合うように今年は特別だった。そう、自分が新しい恋に浮かれて彼岸の少年を忘れてしまったら彼が哀れではないか、という思いにふと駆られてしまったのだ。時の止まった少年を置き去りにするような申し訳なさが翔子を苛んだ。
 そして一方で剣持を好きだと言っておきながら他の少年を思い悲しみにくれる、そんな自分が嫌だった。剣持の横で他の男性のことを考えるなんて剣持に対しての裏切り行為だと思う。自分を大切にしてくれる剣持を思うと自分で自分が許せない。せめて剣持に気付かれずにこの日をやり過ごしてしまいたかった。正直言って翔子はこの日のデートが重荷になっていたのだ。剣持と一緒にいていつも通りの顔をしていられるとは到底思えなかったから。のほほんとしているようで剣持はけっこう敏い。だから今日、剣持と会わずにいられるのはありがたかった。偶然入ったらしい急用に感謝する。今日だけ、今日だけだから、翔子はそう心のなかで剣持と、そして自分に言い訳をした。彼岸の少年を想って悲しいのか、剣持を想って苦しいのか、だんだん自分でもわからなくなっていた。
 
 昼過ぎになり、庭からは訪ねてきた近江が舞子と手合わせしている声が聞こえてきた。翔子はベッドの上で背中を丸め膝を抱えたまま意識せずその声を聞いていた。
「じゃ、なに?・・剣持さん・・嘘ってこと?」
 舞子の声が耳についた。
「しーっ。・・聞こえたらまずいって。」
 声を落とした近江の声が辛うじて聞こえた。聞き流してもまったくかまわなかったのだが、なぜかそれが引っかかった。剣持さん?嘘?聞こえたらまずいって、私に?翔子の頭が勝手に考える。何だろう。なにかちゃんと理解しなくちゃいけないことがありそうな・・。思考がぐるぐる回る。いろんな情報が頭の中にジグソーパズルのように散らばっていて、始めはどこに入るか分からないけれど目が慣れてくると立て続けに填まっていく、そんな感覚があった。
 翔子の表情がはっと変わり背筋がピシッと伸びた。胸がどきどきした。覚えているはずがない、気にしているはずがない。そう思いつつも翔子は確かめずにはいられなかった。
 翔子は急いで階下に降り縁側から中庭に声をかけた。
「近江君。」
 近江がびくっとした顔で振り返った。
「なんだ。翔子サンか。なにか?」
 努めて平静な顔をしているが何かを隠しているのはバレバレだ。
「ねえ、剣持さん今日はなにしているの?はずせない用事ってなに?近江君がここにいるってことは仕事じゃないよね?」
 近江の視線が宙を泳いだ。近江はかなりシラをきったが翔子の追及の手は緩まなかった。そう短くはない攻防の末、ついに近江が白状した。
「剣持さんなら家にいる。休診だし特にすることないから庭の手入れとか、アイロンがけとか、そんなようなことをしてるはず。」
「剣持さん、何か言ってなかった?」
 翔子はある程度の確信を持って質問した。
「・・瀬戸内の海は今日も青いんですかねぇ、って。」
 躊躇いがちの近江の言葉に翔子の目が見開かれた。

 庭木に鋏を入れながら剣持は空を見上げた。戦いが終わった後の瀬戸内の海はもっと深い青だった。
「今年も今日が来ましたねぇ。」
 瀬戸の海に散った少年の命日。翔子が想いを寄せ、翔子を泣かせた男。今頃翔子は彼を想っていることだろう。それはそれで仕方のないことだと剣持は思っていた。彼を許したわけではない。翔子を泣かせたこと、その一点だけでも許せるはずがなかった。しかし、あの時翔子の想いは確かに彼に向いたのだ。あの少年の存在をなかったことになどできるわけがない。剣持はそれが分からないほど若くもなければ浅薄な人生を送ってきたわけでもなかった。そして故人だからこそ忘れられないのだということも、理屈ではなく知っていた。それだけ人の生き死にに関わってきたのだ。翔子は思い切り彼の少年を悼めばいい。無理に忘れようと苦しむ必要などない。ましてや自分との板ばさみになどなって欲しくはなかった。
 しかし、昨夜の電話でキャンセルを申し出た時の、翔子のほっとしたような声からすると、翔子が辛い思いをしているのは確かだった。今日くらいはこちらから離れていてあげようという剣持の心遣いは多分正しかったのだろう。それとも「私は気にしないから、彼を悼んであげればいいんですよ」とはっきり言ってやればよかったのだろうか。剣持はそれでもかまわなかった。いまさら逝ってしまった少年と張り合い嫉妬心を燃やす気などない。なぜならば今生きて翔子の隣に立つのは彼岸の少年ではなく自分なのだから。
 翔子の清廉さは大いなる美点であるが、ときに諸刃の剣となって翔子自信を傷つける。剣持はそんな翔子を愛しくも、また哀れにも思う。できるだけ翔子が傷つかずにいられるよう先回りしている自分に気付き苦笑いをする。甘くなったものだ。
 そこまで考えたとき剣持の脳裏に一人の女が浮かんだ。その女の前で「必要なら女も子どもも殺す」と嘯いたのが随分昔のことのように思えた。彼女とは敵にも、味方にもなった。芯の通った情の深い女だと思った。強い子どもを欲し、剣持との子を望んだ女。彼女の願いを受け入れることはできなかったが幸せになって欲しいという気持ちに嘘はなかった。大切に思う人は一人だけではない、それが当たり前の人間の感情だと思う。
「彼女は元気にしているかな?」
 剣持の目元が緩んだ。

「誰が元気にしているかな、なんです?それに、このお庭の手入れが私とのデートより大事な、はずせない用事なんですか?」
 不意に後ろから声がした。剣持はびくっとして振り返った。
「あぁ、翔子さん、吃驚させないで下さい。心臓が止まるかと思いましたよ。それに気配を消して近づくなんて反則ですよ。」
 剣持は笑いながら答えた。しかし、翔子の眉間のしわはなくならない。何か問いかけるように見つめたままだ。
「貴女がここに来たってことは、近江君が何か言ったんですね。だめだなぁ。余計なことを喋ったら家に入れないって言っておいたのに。まだ修行が足りませんね。」
 翔子は黙ったままだ。剣持は手袋をはずすと眉間にしわを寄せたままの翔子の額に手を当て
「追悼の時間は終わったんですか?」
と静かに訊いた。
 翔子は目をつぶって剣持にしがみつくと剣持の胸に顔をつけたまま小さく頷いた。剣持はその肩を抱くと
「家に入りましょう。」
と言い、縁側から翔子を家の中に誘った。
 お茶を前にテーブルの角を挟んで座ると翔子が俯いたまま小さな声で
「どうして判ったんですか?」
と訊いた。
「私がどれだけ貴女のことを見ていたと思ってるんです?」
 剣持は質問で返した。翔子がハッと顔を上げ剣持を見た。そして剣持の眼に非難の色ではなく、慈愛の色を見て取った翔子は小さく頷いてまた眼を伏せた。そして
「ごめんなさい。」
と言った。
「なにを謝っているんですか?」
「・・いろいろ。・・今日のこととか。」
「キャンセルしたのはこっちですよ。謝るなら私のほうでしょう?」
「だって・・。」
 言いたいこと、言わなければならないことが沢山ある気がするのに、適切な言葉が見当たらない。
「思い出して、悼んであげれば良いじゃないですか。」
 剣持がさらりと言った。
「えっ?」
「貴女が思い出してあげなければ彼も浮かばれないでしょう。」
 剣持の表情は穏やかだ。翔子の心もだんだん鎮まってくる。ただ、言葉が見つからない。そんな翔子を見て剣持はさらに言葉を重ねた。
「私もあの場にいたんですよ。彼が罠に嵌めるために貴女に近づいたのも、貴女が彼に気持ちを傾けて行ったのも全部気付いていました。帰りの船で貴女が泣いていたのも知っています。それに、見ていただけで私が貴女に何もして上げられなかったことも、覚えていますよ。それを総て無かったことになどできるわけがないでしょう。」
 翔子がそっと顔を上げて剣持の眼を見た。剣持の眼には少しだけ後悔の色があった。
「あの時、始めから貴女に警告しておけば良かったんですかねぇ。それでも貴女は彼に惹かれたのかな。」
 剣持が薄く苦笑いをした。
「彼のしたことを許したわけじゃないですよ。今でも思い出せば腹は立ちます。」
「剣持さん・・。」
 翔子は呼びかけた。彼を許していないと言い、一方で悼んでやれ、と言う剣持に本心を問いたかった。
「思い出してあげればいいじゃないですか。」
 剣持は再度言った。そして言葉を続けた。
「それが報復ですよ。」
「報復?」
「そう、報復です。他の男の横で幸せに笑っている貴女を天国の彼に見せ付けてあげればいい。そんな貴女に思い出されたら、彼はさぞかし悔しがるでしょう。」
 あながち冗談ではないような顔で笑いながら剣持が云い、翔子を見た。驚いたように見返す翔子だったがその心柔らかいもので優しく揺さぶられていた。
そうだった。この人はこういう人だった。そんなこと剣持を好きだと自覚したときには分かっていたはずなのに、この男の清濁併せ呑むような懐の深さをまだ理解できていなかったようだ。
 剣持に言葉を返さなくてはと思いながら言葉が出てこない翔子は口を開く代わりにテーブルの角を回ってちょっと移動すると甘えるように剣持の腕に縋り付いた。その頭を剣持が空いているほうの手で撫でた。

「で?誰が『元気にしてるかな』なんですか?」
 しばらくしてすっかり立ち直った翔子は強気の口調で剣持に再度訊いた。翔子でなくても持っている女のカン、というやつがその相手を自分ではない女性だ、と告げていた。自分のことはこの際棚に上げるとして、剣持が他の女性の事を考えていたのだと思うと嫉妬の炎がチラチラと燃えてくる。
「誰、って・・。翔子さん以外にいないでしょう。」
 剣持のよく回る舌が嘘をついた。翔子はそれに騙されはしなかったが、剣持が本気で舌戦をするつもりになれば、まず勝ち目はないことも分かっていた。年齢、経験そして嘘をつくことに対する後ろめたさが、格段に違う。翔子は方針を変えた。
「明日、文人画展に連れて行ってください。」
 急に話題を変えた翔子に剣持はわけがわからずに返事をした。
「え、ええ。いいですよ。待ち合わせは何時にします?」
「待ち合わせはしません。」
 翔子はそういうとばたばたと廊下を走り玄関に向かった。戻ってきた翔子の手にはちょっと遊びに来たにしては大きめなバッグがあった。
「近江君は今日はこの家に入れてもらえなくなったと言っていたのでうちに泊まってもらうことにしました。その代わり、私がこっちに泊めてもらいます。」
 翔子がきっぱりと告げた。
「えっ!泊まるんですか?嘘でしょう?」
 驚く剣持を見下ろして翔子は言った。
「本気です。おばあちゃんにも両親にもちゃんと了解は取ってきましたので。」
「まさか。許すはずないでしょう?!」
「いいえ、みんな許してくれました。」
「それでも、だめですって。」
剣持が慌てる。
「どうして?」
「だって、二人きりですよ。」
「それのどこがいけないんです?お母さんなんてそのまま一緒に暮らせばいいのにって言ってましたよ。」
 翔子があっけらかんと言った。
「・・・。まいったなぁ。扇家の大人は何を考えているんだ、いったい。」
剣持が困ったように言った。
「私も大人です。」
 翔子は剣持の前に正座して言った。覚悟を決めた女の顔だった。剣持は自分に勝ち目がないことを悟った。それでも少しだけ逃げてみた。
「わかりました。とりあえず、夕飯の食材を買いに行きましょう。キャンセルしたお詫びに何でも好きなものを作ってあげますよ。それとも外食のほうがいいですか?」
「わ、作って、作って下さい。手料理食べたいわ。」
 翔子が舞子のように言った。昨日の夜からほとんど何も食べていないのだ。剣持の申し出に急に食欲が出てきたのを感じた。
 夕陽の中、二人は連れ立って外に出た。前を見ながらも翔子に合わせてゆっくり歩く剣持の大きな手を半歩遅れて歩く翔子はじっと見ていた。繋いでもいいだろうか。嫌がるだろうか。我がままだと思われるのは嫌だし・・、と逡巡し上の空で歩く翔子の手が不意に捉えられた。
「!」
 翔子の顔が見る間に赤くなる。握られた手は指先まで固まったかのように動かせない。剣持は知らないふりでそのまま歩き続けた。
 翔子の胸が温かいもので満たされる。不意に翔子は悟った。ドキドキするような初恋は終わったのだ。もう新しい恋が始まっていて、それは激しい感情の揺れを伴うものではないけれど、間違いなく柔らかい愛を伴っている。幸せだ、と思った。翔子は大きく息を吐き出した。そして
「鳴海くん、きっと今頃悔しがっているわ。」
と、そっと囁いた。
 返事はなかったが、翔子の手を包むように握った手に力が込められた。翔子は思い切って指を絡めてみた。それまでずっと前だけを見ていた剣持の視線が一瞬二人の繋がった手に注がれ、次に赤くなっている翔子の顔に移った。剣持は何事もなかったかのように再び前を向いて歩き出したが、その顔が少しだけ赤くなっているのが分かった。夕陽のせいだけではなさそうだ。翔子は繋がれた手に力を込めて誓った。この手は決して離すまい、と。