グローブ・前編

梅花


「典型的な五十肩です。とりあえず痛みは止めますけど、炎症がひどいですからしばらく安静にしてください。」
 扇家の双子の父、千一の部屋で剣持が鍼を打ちながら告げた。
「えーと、明日の午前中に試合があるんだが・・。」
 千一は布団にうつ伏せのまま顔だけあげて振り返り、剣持の顔色を窺うように言った。
「ダメです。痛みがぶり返しますよ。大体、それ以前に手が上がらないでしょう?」
 剣持はピシリといったが、千一はなんとかしてくれ、という目で訴えるように剣持を見た。厳しい顔をしていた剣持だがしばらくの無言の攻防の末、不意に表情を緩めて「まだやってらっしゃったんですね、野球。」と言った。
 千一は
「ああ、やってるとも。アレは私の唯一の道楽だからね。ピッチャーの座はまだ誰にも譲ってないぞ。」
と答えた。
 それと同時に千一の頭には昔の記憶が驚くほど鮮明に戻ってきた。

「あれ、千さんとこの坊主じゃないか?昨日、朝子ちゃんがうちの店に連れて来てたぞ。結婚前に産んだ隠し子だ、とか言ってたっけ。」
 近所の商店街でスーパーマーケットを経営している草野球の監督が言った。
「えっ、千さんちに坊主だって?朝子ちゃんの隠し子?どこだ、あっちか?」
 チームメンバーの声に千一は練習の手を止めて河川敷グラウンドから堤防道路を見上げた。そこには髪の長い少年が息を切らしながらランニングをしている姿があった。
「ああ、あの子か。お姑さんの友人がこの前亡くなって、その孫だっていう子を今うちで預かってるんだ。」
 興味を持ったらしいメンバーたちに千一は少年の正体を教えた。朝子の冗談は別としても、司の存在は隠すようなことじゃない。
 扇千一はこの近くのカルラ神教という宗教団体のいわゆる婿養子だ。カルラ神教の教主は隔世で後を継ぐ。千一の姑でありカルラ神教の教主である扇家当主の千景はまだまだ元気だが、いずれは千一と朝子の間に生まれたまだ1歳の双子の娘達のどちらかが後を継ぐことになる。扇家では女でも後を継げるので、千一は無事婿の務めを果たしたことになる。
 その千一の最大の趣味が草野球。婿に来てすぐ近所のチームに入れてもらい、期待の若手という扱いになっている。チームのメンバーは親世代から千一より若い者までいろいろだが、商店街の人間が主になっている。
「おーい。そこの千さん家の少年、こっちへ来ないか。」
 メンバーの1人堤防道路に向かって声をかけた。少年は駆け足のままその場に止まり訝しげな顔でグラウンドを見下ろした。
 そして千一の顔を認めるとさっとこちらへ降りてきて千一をはじめそこにいる面々に向かって「おはようございます。」と頭を下げた。
「おお、髪の毛が長いのにいい子だな。坊主、お前さん千さん家の子だって?野球できるか?」
 高校野球を愛し男の子は丸坊主が一番だと思っているスポーツ用品店の店主が言った。
 少年は突然のことで戸惑った様子だったが、驚いた顔のまま首を横に振った。「千さん家の子」を否定したのか野球経験を否定したのか両方だったのか。質問の主は野球経験がない、と判断したようだった。
「何だ、できないのか。でもキャッチボールくらいはできるだろう?ああ、そうだ、坊主、名前は?」
 いくらか状況がつかめてきた少年は「剣持司です。」と名乗ってからポツリポツリと聞かれたことに答え始めた。
 学校の授業でソフトボール投げをしたことはあるが、試合はほとんどしたことがないこと。山奥に住んでいて、スクールバスに乗らないと帰れなかったので、放課後クラスの子達と遊ぶ時間はなかったこと。祖母と二人暮らしで、キャッチボールの相手もなく、野球をテレビで見ることもなかったこと。
 一生懸命答える司にチームのメンバーは好感を持ったようだった。特に司の礼儀正しさに年配のメンバーは感心の目を向けていた。
「投げてみるかい?」
 千一は見ず知らずのおじさん達に囲まれて戸惑っている司が可哀想に思えて声をかけた。
 司は一瞬千一の顔を窺うように見たがすぐに頷いた。
 あまりやったことはないというものの、教えてみると司は大層良い生徒だった。やや細めではあるが、身長は高く体格的には恵まれていると言っても良いだろう。肩も強そうだ。なにより司は素直だった。教えられたように投げている。簡単なようでいて、これはなかなかできることではない。
 ひとしきり汗を流すと練習終了の時間になった。このチームは基本的にサラリーマンとは時間の流れが違う。定休日には銭湯で朝風呂に入っていく者もいるが、今日は土曜日だ。商店は忙しい。
 千一と司も帰路についた。
「いつも走っているのかい?」
 千一は歩きながら訊いた。
「いいえ、久しぶりです。死んだばあちゃんに、生きていたかったら体は作っておけ、っていつも言われてましたから、前は走ってたんですけど、ここしばらくは走るのを止めていて・・。でも、やっぱりまた走ろうと思って。ただ久しぶりで息が切れました。」
 小学生にしてはあまりにもしっかりした返答だったが、死んでもいいと思って走るのを止めていた、千一にはそう聞こえた。
「どうしてまた走る気になったんだい?」
「・・・。何だかその方がいいと思って。」
 司は自分でもよくわからない、と言う風に答えた。
「そうか。」
 よかった、とは心の中で付け足した。
 姑の話だと司は人殺しの疑いをかけられ村にいられなくなったと言うことだった。千一は正直、そういう子を小さい娘のいる自分の家に入れるのには戸惑いがあった。
 しかし姑が連れてきた少年は礼儀正しく、粗暴なところは微塵も見られなかった。暗い目が気にはなったが、娘たちはあっという間に懐き、朝子の手伝いも良くしてくれている。姑はただ見守っていた。しかし千一は複雑な環境にあるこの子供にどう接して良いのか分からずに、日々の挨拶程度のコミュニケーションしか取れていなかったのだ。
 それが思いがけずの会話成立である。今日のボール投げの素直さを見て、千一は司に対する認識をすっかり改めていた。千一は自分に人を見る眼はある、と思っている。結局司はいい子なのだ。だからうちの子供たちも懐いた。神経質な翔子までが懐いたのには正直驚いたのだが。
 千一は自分の気持ちの中に司に対する暖かい感情が湧いてくるのを感じていた。それが同情心なのかどうかは千一にもよくわからなかった。
 翌日も朝練習に出かけた千一はランニング中の司を捉まえボールを投げさせた。それが数日続き、水曜の朝スポーツ用品店の店主が
「千さん、頼まれてたのもってきたぞ。随分あの坊主が気に入ったようじゃないか。」
と言って紙袋を差し出した。
 やがていつものように司が走って来るのが見え、千一は司を手招きした。ドキドキしているのが我ながら可笑しかった。
 司はいつものように礼儀正しく皆に挨拶をした。
「これ。」
 千一はさっき受け取った紙袋を司に差し出した。
「?」
 司は怪訝な顔で受け取った。
「君のだ。開けて見なさい。」
 がさがさと音がして、司の「わぁ。」という声がした。その声には明らかに喜びの色が含まれていて千一はホッとした。
 司は黒に近い紺色の子供用グローブを取り出しひっくり返しながら嬉しそうに眺めていた。
 そしてはっとした様子で「頂いていいんですか?」と聞いた。
「いいに決まっている。グローブがないと捕球できないからな。これでキャッチボールができるぞ。」
「ありがとうございます。」
 司が礼を言った。
「良かったな、千さん。」仲間が声をかけ、司に向かっていった。
「あのな、この千さんは婿養子で肩身が狭くて、野球くらいしか道楽がないんだ。でも子供は女の子だけだし、家に帰ってもキャッチボールの相手がいないから、いつもつまらないって言ってたんだよ。」
 それを聞いて司はくすくす笑い、千一は司が笑ったのはこちらに来て初めてのことだと思った。
 その日千一は試合の練習ではなく司とのキャッチボールに時間を費やした。朝子のことは愛しているし、娘たちはかわいい。婿養子だからと言って虐げられた生活をしているわけではない。別に不満のない生活だったが、こういう楽しみはなかった。
 それからその日は水曜ということもあり、みなは銭湯に連れ立っていき、司も半ば強制的に連れて行かれた。
 風呂に浸かりながら千一は司に野球の話しをし、司は興味深げに聞いていた。回りの仲間たちは「千さん、幸せそうだな」と冷やかし、司は決まり悪そうな顔をした。
 その顔に千一は手で水鉄砲を作り司の顔にお湯を飛ばした。
 ピュッと飛んできたお湯に司は
「どうやったの?」
と驚いたように聞いた。
「何だ、知らないのか。」
 千一は手の組み方やお湯の飛ばし方を教えながら、司が敬語ではなく普通にしゃべっていることに気付いて頬が緩むのを感じた。見ると司の手からはお湯がちょっとだけしか飛ばず、周りの大人に笑われむきになって練習しているところだった。その子供らしい姿を見て、千一はある決心をした。その時千一の顔に司の手からピュッっとお湯が飛んできた。
 同時に司の笑い声がして、続いて仲間たちの笑う声が銭湯中に響き渡った。

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