グローブ・後編

梅花


 数日は平穏に過ぎて言った。野球の朝練習がないときには司と庭でキャッチボールもした。本当は姑に話がしたかったのだが姑はまた遠出をしていて帰ってこなかった。
 やがて姑が帰ってくると千一と朝子は話があると呼ばれた。姑の前に正座すると、姑の口から思いがけない言葉が飛び出した。
「司の行き先が決まった。明後日の昼ごろに大宮駅で塩竈神社の者に司を引き渡す。司は宮城の塩竈神社で修行しながら生活することになったよ。もちろん学校にも通うことになる。千一も朝子も司には良くしてくれた。この通りだ。」
 そう言って姑が頭を下げた。
「待ってください。お姑さんが帰ってきたらあの子をここで育てられないものか相談しようと思ってたんです。そんな急に言われても・・。」 
 千一は珍しく姑に反論した。
 しかし姑はいつもの口調で言った。
「お前の気持ちは本当に嬉しいよ。普通の子みたいに接してくれてありがたかったと思う。でもね、これは司自身が決めたことでもあるんだ。」
「司君が?」
「ああ、あの子はまだ10歳だが中身はもう子供じゃない。自分に必要なことが何か、よく弁えている。」
「そんな・・。」
「司はすでにして剣持本家の当主なんだよ。剣持の人間としてしか生きられないんだ。」
 姑の顔が少し歪んだ。千一は姑も司の行くであろう厳しい道程を案じていることを知った。剣持の家が何をしている家かはよく知らないが、姑がこれだけ気にかけているということは、ただの家でないことは確かだ。となると、千一にはとても及ばない話になる。あの子は普通の少年なのに。素直ないい子なのに。司の先行きを案じた千一の胸が痛んだ。
 明日は出発という日の夜、司は荷造りをしていた。荷造りと言っても持ってきたスポーツバッグに持ってきたものを入れただけの簡単なものだったが。朝子はそれでも何かを持たせてやろうとしたが司は頑として首を縦に振らなかった。何も受け取らず、何も残さず、と考えているかのようだった。
 千一は自分がいつも練習に持っていくスポーツバッグから司のグローブを出して司に渡した。
「これも持っていきなさい。」
 しかし司は首を横に振った。
「もう、野球はしません。」
「なんで?楽しくなかったかい。」
「ううん、すごく楽しかったです。でも、僕はもう普通の子みたいに遊んで暮らせないから。修行して強くならないと。野球だけじゃなくて、楽しいことなんかしてちゃいけないんです。」
 司の返事は千一の心を締め付けた。
「少しくらいの息抜きだって必要だよ。」
 千一は頑なに首を振る司の手にグローブを押し付け部屋を後にした。
 翌日。
 司は扇家全員に見送られ塩竈に旅立った。別れが分かった訳でもないだろうに翔子が司から離れず、無理に引き離したら今度はぐずり、大泣きしたので別れは慌ただしかった。
 そして扇家に戻った千一は司の使っていた部屋の文机の上に「ごめんなさい」と子供らしい字で書かれたメモと司に渡したはずのグローブを見つけた。駅で別れたときより胸が痛かった。
 千一は濃紺の自分のものより一回り小さいグローブをゆっくりと紙袋に仕舞い、自分の部屋の地袋に押し込んだのだった。
 3年後に再開した司は居候の子供ではなく姑の仕事仲間として、数日間扇家の客人となった。背も伸びて大人びた顔つきの司に、娘たちは覚えていたわけでもないのに良く懐いた。しかし千一はキャッチボールをしようなどと、とても言い出せなかったのを覚えている。遠い子になってしまったのだと、実感したのもその時だ。
 しかし、願いかなわず手放してしまった少年は十数年を経て見違えるくらい大きくなって帰ってきた。聞けば娘達の初仕事からサポートしてくれていたのだという。そして、今は翔子の恋人としてこの家に出入りする身だ。今になって思えば、翔子は駅でぐずったあの時から将来は司の嫁になると決めていたんだろう。まだ具体的な話はないが、近い将来そうなるに違いない。翔子は物静かだが実は頑固で決めたことは絶対曲げないから。そうしたら、司は私のことを「お義父さん」と呼んでくれるだろうか。
 治療が終わり鍼のケースを仕舞う剣持の背中を見て、あの細かった子がねぇ、と千一は思った。細身ながら実はしっかり鍛えられた体の剣持を見ると、野球をやらせたくてうずうずするのだ。
「なあ、君。明日の試合私の代わりに投げてくれないかね。」
 鍼を片付け終わった剣持に千一は言った。
「何言ってるんですか。野球なんてあれ以来してないんですよ。できるわけないでしょう。」
「だって、ぎっくり腰やらなんやらでメンバーが足りなくて明日私が抜けたら困るんだよ。」
「大体、私、道具は何にも持ってないですよ。」
 剣持が言った。
「大丈夫。私のだってあるし、それに・・。」
 千一は治療の姿勢から這い出して地袋の中をごそごそと探っていたかと思うと紙袋を引っ張り出してきた。
「ほら。君のだ。開けてごらん。」
 剣持は驚いた顔で紙袋を受け取った。中からは新品の濃紺の大人用グローブがでてきた。
 司は言葉を忘れたかのようにじっとそれを見ていた。
 やがて、
「20年間、あなたが怒ってらっしゃると思ってましたよ。」
と剣持はつぶやくように言った。
 千一は満足げな顔で
「出てくれるかね。」
と再度聞いた。
「何人足りないんです?」
 剣持は千一の問いには答えず訊いたが千一はかまわず答えた。
「5人。」
「それは、すでにチームの体をなしていないのでは?」
「いや。みんな自分の息子やら孫やらを代わりに出して穴を埋めるのさ。半分は自慢だよ。でもうちは女の子しかいないからね。千さんちは無理だろう、うちの息子貸そうか、なんて言われて見なさい。腹が立つっていったらないんだよ。」
「それで、私が出れば数は足りるんですね。」
「いや、あと1人。」
 千一が妙に力強く言った。
 その1人を調達できれば千一の株も上がるのだろう。剣持は千一の気持ちを察し、肩をすくめていった。
「分かりました。何とかしましょう。・・あるんでしょう?もうひとつ」
 剣持の言葉に千一は待ってましたとばかりもう一度地袋の戸に手をかけた。
 剣持はというと襖を開け外に向かって
「近江君、ちょっと来てください。」
と呼んだ。
 庭で舞子と手合わせをしていた近江は「はい」と部屋の前の縁側に上がった。
「今夜はここに泊めてもらって、明日は私と一緒に野球の試合に出てください。」
「え、野球?急に何なんですか、それ?」
 訳が分からないという顔をした近江に千一が紙袋を手渡した。中には剣持のと同じメーカーで色違いのグローブが入っていた。
「???」
 それでも怪訝な顔の近江に剣持は
「近江君、親孝行ですよ、親孝行。ね、お父さん。」
と笑って言った。
 まったく人生は何が起こるか分からないものだ。目の前に「息子」が二人もいる。千一は自然にでてくる笑みを堪えきれなかった。  

(終)

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