始まりの日 

梅花

※短編思い出せたらから設定が続いています。合わせてご覧下さるといいかと思います(管理人)

1・受難

 翔子はちらりと腕時計に目をやった。あと15分で講義が終わる。すでに集中力はない。昨夜受けたダメージは思ったよりも大きかった。いまだかつて経験のない種類のダメージで、今になってもじわじわと侵食されているような気がする。翔子は自分がひどく消耗しているのを感じていた。気持ち悪さで吐きそうだ。朝も食べられなかったが、ランチを食べようという気にもならない。
なかったことにしてしまいたいのに、昨日に繋がる一連のことが思い出され、そのたびに怒りと恐怖と、後悔そして自己嫌悪が翔子を襲った。
 事の起こりは春の終わり頃、二人で一緒に食事をしているときに剣持が発した一言だった。
「そろそろボーイフレンドの1人くらい作ったらどうですか?いろんな人と知り合うのも学生時代には必要なことでしょう。人脈は大事ですよ。それに貴女の大学なら神社の次男とかお婿さんにうってつけの人材がたくさんいそうじゃないですか。」
 翔子はこの一言にカチンと来た。翔子が誰を好きなのか、知っているはずなのにもかかわらず、この発言。剣持は翔子が伝えたいと思う一言をいつも先回りして封じてしまう。かといって邪険にするでもなく、困った時は助けてくれるし、甘えれば少し困った顔をしながらも受け入れてくれる。舞子や近江などは、剣持は翔子に甘すぎると言っている位だ。たしかに大事にはしてもらっていると思う。しかし、それは兄が妹をかわいがるように、なのである。翔子が幼い頃剣持と面識があった事を思い出し、一度「司おにいちゃん」と呼んで以来、剣持は翔子に対していいお兄さん役に徹していた。そしてそれは翔子にも妹役に徹しろ、と言わんばかりであった。それを何とか打開したいと思っていた時のこの発言である。売り言葉に買い言葉、翔子は怒って
「剣持さんがそういうのなら、そうします。『おにいちゃん』にべったりじゃできる彼氏もできませんから、もう誘わないで下さい。」
と言い放ってしまったのだ。それ以降剣持からの誘いは無く、翔子は今まで断り続けていた合コンや男子学生からの食事の誘いに応じるようになった。
 男嫌いかと思われていた高嶺の花、扇翔子が合コンに行った、どこそこゼミの誰それと食事に行った、という情報は瞬く間に大学中に知れ渡り、翔子の身辺はにわかに騒がしくなった。ひそかに活動していた翔子のファンクラブも翔子の変身振りに勇気を得たのか、おおっぴらに活動するようになり、その存在は翔子の知るところとなった。女友達たちはそれまで自分のファンクラブの存在すら知らなかった翔子に半分呆れ顔であったが、ようやく恋愛に興味を向けたかのように見える翔子を、からかい冷やかしつつも温かい目で見てくれていた。実際翔子が来るか来ないかで合コン相手のレベルが変わるのだからそう意味でも翔子の存在は重要だったのだ。翔子は聞かれるままに次は誰と出かけるのか、先日の相手はどうだったのか、友人たちに話していた。隠したいほど大切な出会いも付き合いも無かった。
 初めのうちは確かに刺激的な生活ではあった。男子学生たちに好意を示されて嬉しくないわけはない。しかし、それもすぐに重荷になってきた。誘われるまま一緒に食事をしても、「気」が合わない人に無理やり合わせるというのは自分の「気」を消耗させるのである。そしてこんな歳の男子学生なのだから当然といえば当然なのだが、皆多かれ少なかれ大人の付き合いへの進展を望むのだ。そしてそれは露骨であったりなかったりしたが、その若さ故に得てして性急だった。翔子にしてみれば半分以上は剣持へのあてつけでしていることなのだからもとよりそんな気は無い。警戒は十分しているつもりだった。夏休みに入る前は旅行の誘いもたくさんあった。そんな誘いを受けたらどうなるかわかりきっている。だからそういう誘いは歯牙にもかけなかったが、それでも夏休み中に舞子が合宿だ、手合わせだ、と家を留守にしている間、翔子も飲み会だなんだと遊び歩いた。その間は少なくとも退屈では無かった。楽しくも無かったが。
 そしてそんな夏が終わりの気配を見せ始めたころ、翔子は自分の「気」が少し荒んだことに気付いた。「気」が弱ったせいなのか夏の疲れのせいなのか体も弱っている。そして夏休みが終わり大学が再開した数日前、翔子の身に異変が起きた。変な念に付きまとわれるようになったのである。どうやら翔子の気を引きたい男子学生の中で多少の霊能があるものが夏休み中におかしな技を身に付け翔子に念を飛ばしているようであった。普段ならそんなものを寄せ付けないだけの「気」はあるはずだった。しかし、荒れて弱った気では不十分だったのか何度かそれを散らそうとしてみたものの、しばらく離れるだけでまた付きまとってくる。まさに鼬ごっこである。それでさらに体力、気力を消耗した。唯一の救いはそれが扇家に張ってある結界のおかげで家の中まで付いて来ないことだった。千景に知れたら何を言われるかわかったものではない。頼りの舞子は長期合宿で留守であった。
 お手上げ状態の翔子には、求めれば間違いなく助けてくれるであろう人の顔が思い浮かぶのだが、自分で拒絶した以上頼るわけには行かない。当てつけのつもりで好きでもない男の子たちと遊び歩いた挙句に心身ともに弱らせて、変な念の一つも散らしきれずにいるなど術者として失格だ。そんなことが知れたら軽蔑されてしまう。それは嫌だという意地が翔子にはまだあった。
 そして昨日。とりあえずは生活を改めよう、と心に誓いながらも、律儀な翔子はすでにしてしまった約束を果たすべく先輩の1人と食事に出かけた。相手は縁結びで有名な鴛鴦(えんおう)神社というところの次男坊でルックス、頭とも悪くは無い。鴛鴦神社は通常「おしどり」神社と呼ばれていてそちらのほうが通りがよい。その先輩も別の苗字はあるのだが、おしどり神社のおしどり先輩で通っている。
女の子に人気はあってけっこう世慣れた風ではあるが、もてる割に恨みは買っていない、という評判だった。それなりに話は合った。女の子の扱いも確かにうまかった。そして彼には翔子についている念が見えるようで、食事の最中に「翔子ちゃん、何か憑いているから後で祓ってあげようか」と言ったのだ。翔子は驚いたが藁にも縋る思いで、「できるのならお願いします」と言った。そして帰り道の公園で「じゃあ、お祓いをしよう」と正面から抱きしめられたのだ。突然のことで反応が遅れた。両手が自由にならず印を結ぶこともできなかった。背中を撫でられ皮膚が粟立った。違う、この手じゃない、そう思った。体を撫で回されスカートをたくし上げられる。「止めてください。」の言葉は「何言ってるの?お祓いだよ、お祓い。して欲しいって言ったのは君だよ。」と男のあきれたような反応に軽くあしらわれてしまった。これは真剣にまずいのではないか、と思ったとたん自分がパニック状態に陥っていくのが分った。冷え冷えとした恐怖感が全身を支配したときに脚に薄い痛みが走った。男が自慢していた何とか言うブランド物の腕時計の止め具で擦れたようだった。その痛みで冷静さを取り戻した翔子は必死で抵抗した。しかし抵抗されるなどとはなから考えていなかった男は怒り半分でさらに力をこめ次の行動に移った。キスされそうになり顔を背けた翔子は露になった鎖骨の辺りになんともいえない気持ち悪さと痛みを感じた。『敵に首筋を晒してはいけませんよ。命に関わりますからね。』と言う言葉が頭をよぎった。誰にそう教えられたのか思い出せない。ただ、これが先輩でなく敵だったらたった今自分の命は尽きたのだ、そう思ったら腹の底からひんやりしたものがこみ上げてきた。
「嫌っ。」と声を上げるしかなかった翔子への救いの手は思わぬところから伸ばされた。ファンクラブの面々が「翔子さんを守れ」とばかりに現れたのだ。女友達に今日の予定を話してあったのが幸いしたとも言える。どうやら彼らは翔子の友人から今日の情報を聞いて、学内でも有名な金持ちの遊び人とデートしたら翔子の身が危ないのではないかと気が気ではなく、跡をつけていたらしかった。おしどり先輩はそこで慌てるのはスマートでないと判断したのか、肩を竦めて翔子を解放してくれた。おかげで実際のところ背中や足を触られ首筋にキスされた程度の被害ですんだのだが、霊能ではなく生身の自分の力では到底男の力にかなうわけが無いということを思い知らされた。ショックだった。それに自分が襲われかけた恐怖とファンクラブの面々に見世物にされていたような不快さはどうしようもなかった。そして救い主たちに礼も言わず翔子は逃げるようにその場を去った。
 翔子は家に帰りつくと家族と顔を合わせないように風呂へ直行した。鎖骨のすぐ上に赤い痕を見たとき翔子の目から涙が流れ出た。シャワーを目いっぱいに出して泣いた。そして血が滲むほどごしごしと洗ったがつけられた痕は消えるはずがない。何でこんなことになってしまったのだろう。警戒はしていたはずなのに、自分の認識の甘さが情けなかった。力で勝てない自分が悔しくて涙が出た。しかしその時の翔子の感情は涙と嗚咽だけで吐き出しきれるものではなかった。
 ベッドに入った後も翔子は声を殺して涙を流し続けた。以前ならばこんなに感情が荒れたとき頼れる場所はあったのだ。それなのに背中を撫でてくれる優しい手を拒絶してしまったのは自分だ。あの腕の中で思い切り泣きたかった。それと同時に、こんな愚かな自分を決して見られたくないとも思った。彼の人は優しいが、反面とても厳しい。自分を律することが出来ない術者には容赦ないだろう。翔子は改めて剣持に対して心を閉じた。そうしないと伝わってしまいそうで怖かった。
 翌日、浅い眠りと悪夢と覚醒を繰り返した翔子の体は疲れきっていたが、それでも大学へ行くためにベッドから這い出してきた。家族に何も悟られたくなかったし、昨日のことを知っている面々にショックで休んだなどと思われるのは絶対に嫌だった。そんなことは扇翔子のプライドが許さない。あんなことなんでもない、という態度を貫かなくては。そう思い水を吸った綿のような体を引きずって講義に出た翔子だったが、ただ座っているのがやっとの状態で半日が過ぎてしまった。数日来付きまとっている念は今日もふよふよと背中にいた。
「何が『祓ってやる』なのよ。」
 翔子は苦々しい思いでそれを見た。しかし打つ手はなかった。

*  NEXT→