講義が終わっても立ち上がれないでいる翔子の回りに友人の女学生たちが集まってくる。 「ちょっと大丈夫?顔色悪いよ。ランチに行ける?」 女学生は少ないがその分結束していてみな親切だ。 「うん、食欲はないけど大丈夫。ちょっと寝不足なだけ。」 そう答えておく。 「で、昨日はどうだったの?おしどり神社のおしどり先輩でしょ?」 何も知らない友人が興味津々に夕べの事を聞いてきた。翔子が何と答えればいいのか分らずに困惑の表情を浮かべたその時、友人の1人が講義室に走りこんできた。 「ねえねえ、中庭の噴水のところにちょっとかっこいい人がいるわよ。人待ち顔だったからいつまでいるかわからないけど、今のうちにみんなで見に行かない?」 みんなの興味が一斉にそちらへ向く。女子大学生の興味など、ここに尽きるのだから仕方ない。何人かが窓際に寄り中庭を見下ろす。遠くに見える噴水の周りには何人かの人影が小さく見えている。自分への質問から話がそれたことに安心した翔子は 「みんなで行ってきて。私は・・」 といいかけたがその言葉は他の女学生の 「どんな人?本当に見に行くほどのルックスなわけ?」 という言葉にかき消されてしまった。 「うん。座っていたからどの位かはわからないけど、背は高そう。髪が長くてね、黒くてサラサラなの。」 「えー、男のくせに?」 翔子の表情がピクリと動いた。髪の長い男などいくらでもいるだろうけど、反応してしまう自分が情けない。 「でね、きれいな顔なのにここに傷があるの。それがまた・・」 頬を縦に触ってみせる友人の言葉が終わらないうちにガタン、と大きな音を立てて翔子は立ち上がった。みんなが一斉にこちらを見る。どうしたの?という視線に 「私、ちょっと用事ができた。みんなでランチに行ってきて。」 と言い置くとふらつく体で講義室から飛び出した。 急ぐといっても心身ともに疲れている今、その速さはせいぜいのところ早足である。階段をころげ落ちそうになりながら降りると息が切れた。壁に寄りかかり呼吸を整える。そしてふと考える。私に会いに来たの?それとも・・。剣持は翔子の通う大学の図書館にときどき調べ物にくるのだ。図書館の司書は間違いなく剣持狙いだ。翔子の知らないうちに親しくなっているかもしれない。「ここにいるからって私に会いに来たとは限らないんだ。」と思ったら動けなくなった。のこのこと出て行って拒絶されたらもう再起不能間違いなしだ。そこでなけなしの気を使って剣持の様子を探った。剣持の気配はすぐに捉えることができた。剣持の気を感じ深呼吸する。ずっと剣持に対して心を閉じていたから、剣持の気を感じるだけで鼓動が早くなる。苦しいのだが、それすら嬉しい。 その時頭の中で「早くいらっしゃい」と声がした。心臓が飛び上がった。聞き間違えるはずのない声。自分に会いに来てくれたんだ、そう思っただけで翔子の心は嬉しさではちきれそうになった。同時になぜ?と言う疑問が浮かび、その嬉しさは一瞬で凍り付いてしまった。どうしていいか分からない翔子だったが、「会いたい」という一番強い感情に引かれて震える体で思い切って中庭に出た。 噴水の縁に剣持が座っていた。そして翔子を見るなり眉をひそめて 「ようやくつかまったと思ったらひどい有り様だ。」 と言った。言葉とは裏腹に声には翔子を気遣う色が含まれていた。 「どうして・・?」 剣持は少し困惑した声で意外な答えをした。 「どうして、ですって?あなたが呼んだんでしょう?」 そんなはずは無い。昨日だってすごく努力して心を閉じたのだから。知られているはずは無い、と思いたかった。そして翔子は力なく答えた。 「呼んでなんかいません。」 「そうですか。じゃあ、私に用はないんですね。じゃあ、私は帰ったほうがいいのかな。」 翔子は答えられなかった。帰って欲しくは、ない。しかし引き止めてどうする?どうしたらいいのか分らない。頭が考えることを放棄してしまっているみたいだ。 剣持が立ち上がってじっと翔子を見つめた。帰ると言いながらも動かない。無表情なその顔は問いかけているようにも、困惑しているようにも見えた。そしてその眼の奥には翔子を心配する色があった。その色を見て取ったとたん翔子の心の秤が傾いた。翔子は堪えきれずに震える声でいった。 「だめ。帰らないで下さい。」 「翔子さん?」 「助けて。助けて下さい。」 蚊の鳴くような小さい声しか出なかった。しかしちゃんと反応した翔子に満足したように剣持が言った。 「いったい何があったのですか。」 その声はいつもの優しい声だった。それを聞いて意地を張り続けることはもう出来なかった。そして翔子は変な念に纏わり付かれて困っていると告げた。昨日のことは絶対言えない。だがこの際この問題くらいは剣持に頼ってもいいだろう、と思った。剣持は翔子の背後を見ると意外なことを告げた。 「これは確かに厄介ですね。簡単には散らせませんよ。変な念に見えるけど、神様のお使いもいますから。」 「えっ?」 「この大学に鴛鴦神社の関係者がいるのかな。鴛鴦を使えるってことはたぶん直系の人間だ。歳から言ったら宮司の息子、ですね。学生で在籍しているのかな。」 剣持は鴛鴦神社について知っていることがあるらしい。それはまさしく昨日翔子に不埒なまねをした先輩の実家だった。祓ってやるとか言いながら自分で飛ばした念だったのか、と思ったら無性に腹が立ち、また見抜けなかった自分が嫌になる。詳しいことは言いたくなかった翔子は簡潔に返事だけをした。 「はい。」 剣持は少し目を細めるとぐるりと周りを見渡し「彼ですね」と言った。翔子はその視線を追い、二度と会いたくない顔を見つけ頷いた。向こうもこちらを窺っているようだ。 「そのまま返すべきかな。でも神様のお使いをあんなふうに使うのはちょっとね。少し反省してもらわないといけませんから、それなりの対応をさせてもらいましょうか。」 剣持は指先で五芒星を描くと口の中で呪文を唱えた。とたんに相手が崩れるように地面に倒れこんだ。彼の周りにいた人々が「どうしたんだ」と騒ぎ出す。何がおきたか判っているのは恐らく剣持と翔子の二人だけだ。翔子は蒼い顔で剣持を見上げた。まさか殺してしまったわけではないだろうけれど・・。 「大丈夫です。あなたに纏わり付いていた念にちょっと私の怒りを上乗せして返しただけですから。家に戻れば彼のお父上が何とかしてくれるでしょう。お父上はけっこうな人格者なんですけど、不肖の息子が出来てしまったわけですねぇ。」 剣持は馬鹿息子の父親を知っているようだった。そして「お父上でだめなら、私のところに来るでしょう。」と言った。 翔子は自分の周りの空気が軽くなったのを感じていた。あれだけしつこかった念がなくなっている。素直に剣持に礼を言う。 「ありがとうございました。何だか、すごく楽になりました。」 久しぶりに心からの笑みが出た。それを見て剣持も少し安心したように言った。 「それは良かった。」 「少し不摂生してて夏バテ気味だったんです。「気」も少し弱くなっちゃってて。でももう大丈夫です。」 翔子は言い訳するかのようにそう言った。深くは追求して欲しくなかった。 「大丈夫な顔じゃあ無いですよ。気だって、少し弱くなって、なんてもんじゃないでしょう。」 剣持は翔子の言葉に反論するかのようにそういいながら翔子の唇を人差し指の背ですっと撫でた。翔子の体が固まり目が見開かれる。こんなところで何を、そう思いながらも翔子は剣持の次の動きを期待した。しかし剣持の指はそれ以上翔子に触れることはなく、その口から出たのは翔子をがっかりさせるものだった。 「睡眠不足と脱水と貧血と、たぶん低血糖です。唇がカサカサですよ。頭もしっかり働いていないでしょう。こんなんじゃ講義の内容も頭に入らないはずだ。しっかり寝たほうが良い。家まで送ってあげるから今日はもう帰りなさい。」 何かを期待した自分が馬鹿みたい、と思った。しかし剣持の言葉には逆らえなかった。いくら少しばかり楽になったとはいえ、基本的に弱っているのだから剣持の言うとおり帰って寝るべきだ。そう思ったとき翔子の返事を待たずに剣持が続けた。 「ん?他にも祓ったほうがいい輩がいるのかな。あの集団は何です?」 なけなしの気を集中させるまでもなくこちらを注目している複数の視線を感じた。翔子に触れた剣持を睨みつけてる。翔子はため息を付いた。 「・・私のファンクラブ、です。」 恥ずかしくて大きな声では言えない。 「へぇ。もてるんですね。翔子さん。」 剣持にこういう言われ方はされたくなかった。 「ありがたくは無いんですけど・・。」 「あれも祓いますか?」 剣持が意外なことを言った。翔子は聞いた。 「出来るんですか?彼らは別に霊能者じゃないんですけど。念とかも送ってきてないし。」 「ま、たぶん出来ますよ。その代わり、ファンクラブが解散してしまうかもしれないですけど。」 よくはわからなかったが、翔子はもうすべてがどうでもよかった。 「かまいませんから祓って下さい。」 「わかりました。でも本当にいいんですか?ほら、あの彼なんて素直でいい気を出しているけど・・」 剣持のからかうような口調に翔子はムッとして拳を振り上げた。いったいどういうつもりなのだろう。顔を見上げれば少し笑っている。強く叩くつもりは無かったが抗議の意味を込めて翔子は振り上げた拳を剣持の胸めがけて振り下ろした。待っていたかのように剣持の手がそれを柔らかく受け止めてクイッと下に引く。翔子は剣持のほうによろけたかと思うとそのまま剣持に抱きつく形になった。剣持の動きは素早く、片手で翔子を支え、反対の手はいつの間にか翔子の背中に回っている。ファンクラブ一同が息を呑むのが分った。そして昨夜同様、翔子の反応いかんによっては救出を、という意志がありありと感じられた。しかし、剣持の意図を察した翔子は剣持の背中に両手を回し、ぎゅ、っとしがみついて頬を摺り寄せた。傍から見れば恋人同士が痴話喧嘩の末に和解して抱擁しているように見えたことだろう。これで、ファンクラブの面々もおとなしくなるに違いない。彼らの落胆のため息まで聞こえるようだった。 「このくらいで大丈夫かな。」 ほんの少しだけ時間を置いて、剣持の声が上から聞こえ腕が解かれた。翔子もあわてて剣持から離れた。周りの視線が先ほどとはまったく違う。この「事件」はあっという間に広まるだろう。明日からどんな顔をして大学へ来ればいいのだろう、そんなことを考えていると剣持の声がした。 「さ、帰りますよ。ここで待っていますから、荷物を取ってらっしゃい。」 翔子がはっとして自分の両手も見た。そういえば手ぶらだ。さっきの講義室に全部置いてきてしまった。3階か、と講義棟に戻ろうとした翔子がブルーになったとき、「はい、これ。」と友人の一人が翔子にかばんを差し出した。わざわざもって来てくれたのだ。もちろん、偵察をかねて、である。 「あ、ありがとう。」 「なに?彼氏?送ってもらえるの?大丈夫?」 立て続けの小声の質問に翔子が困惑していると 「ああ、お友達ですか?すいませんね。翔子さんは私が家まで送り届けますから大丈夫です。心配してくれてありがとう。」 と剣持が翔子のかばんを受け取り、にっこりと営業用の笑顔で友人に笑いかけた。その友人の頬がほんのり染まる。そして剣持はダメ押しの一撃とばかりに周囲に聞こえるように少し大きな声で言った。 「さ、帰りますよ。付いていらっしゃい。」 翔子は小さくうなずくと友人に「じゃ、また明日ね。」とだけ言って剣持の後ろに従った。 あの扇翔子が男に命令されて素直に従っている、それはファンクラブのみならず周りの人間たちにとって少なからず衝撃的な出来事であった。 タクシーに押し込まれて無言のまま家に向かっている間にも体調は心なしか良くなってきていた。まだ、剣持の真意がわからないので寄りかかることはできなかったが、先ほどの抱擁の感触がまだ残っている。芝居だったとしてもそれは翔子にとって心地良いものだった。しかし同時に一層募ってしまっていた切なさは、翔子の胸を苦しくさせた。優しくされて辛くなって、また同じことが繰り返されるのだろうか、そう思うと翔子はもう全てを終わりにしたかった。あの芝居の抱擁が最後かもしれない、そう思いながらその感覚を忘れないように何度も何度も繰り返し思い出していた。 |