始まりの日 

梅花

※短編思い出せたらから設定が続いています。合わせてご覧下さるといいかと思います(管理人)

3・結実

 家に着くと朝子が驚いて二人を出迎えた。
「まあまあ、二人ともどうしたの?」
 翔子はなんと言ったらいいか考えることすら出来なかったが剣持は、大学でたまたま翔子を見かけたがあまりに具合が悪そうなので連れて帰って来たのだ、と淀み無く説明した。確かにそれは事実だ。
「どうしましょう。司君、何とかできるの?それともお医者様に連れて行ったほうがいい?」
 朝子の反応に
「寝不足が一番で、あとは脱水と貧血、低血糖ってところだと思います。少し気も弱っているから少し足してあげて、しっかり寝かせば大丈夫ですよ。」
と答え温かくて甘めの飲み物を用意するように朝子に言った。朝子は
「わかったわ。じゃ、司君は翔子をお願いね。部屋に連れてって寝かしてやって。」
 そう言うと台所へ向かった。朝子の剣持への信頼、ことに翔子に関しては絶大だ。普通年頃の娘を寝かす役目を赤の他人の成人男性に頼むなど考えられるものではない。
 2階への階段の途中で息が切れた。かばんを持ってきてくれた友人に改めて感謝する。講義棟の3階までなんてとても上れなかったに違いない。
「階段で息が切れるのは貧血の証拠ですよ。」
 剣持の声がしてさりげなく背中を支えられる。まだ夏の終わりだというのにその手の暖かさがじんわりと染み込んでくる。あまりの気持ちよさについ頼ってしまいそうになるのを我慢し、無理して足を動かす。部屋の前で剣持が言った。
「楽な服に着替えてください。体を締め付けているものは全部はずして。すこし「気」を足して流しますから。ああ、それと、化粧は落としてください。」
 翔子は部屋に入り服を脱いだ。下着も上ははずし、丈の長い木綿のワンピースをストンと着る。だいぶ前から着ているものでデザインは古いが柔らかくて着易さでは一番だ。一応前開きで縦に狭い間隔でずらっとボタンが並んでいるが上から3つボタンをはずせばかぶりで着脱できる。そして一番上までボタンを留めれば鎖骨近い昨日の痕は何とか隠せる。それからざっとメイク落しで顔を拭く。そうしながら、このまま剣持の言葉に従っていいものかを考える。しかし、疲れきった頭では簡単には答えが出ない。そのとき外で母と剣持の話す声がした。やがてドアがノックされて朝子が入ってきた。
「着替え済んだの?じゃ、司君に入ってもらってもいいわね。ちゃんと診てもらって治してもらうのよ。」
 湯気を立てているカップの載った盆を置くと母が出て行き「お願いね」「ええ」というやり取りが聞こえた。そして剣持が「入りますよ」と声をかけてから入ってきた。
 翔子は緊張してベッドに座り剣持には机の椅子を押しやった。何を話したらいいか言葉が見つからない。剣持は湯気の立つココアのマグカップを翔子に渡し
「思ったより顔色が悪いですね。体も冷えているようだし、とりあえずこれを。飲めるだけでいいですから。」
と言った。
 そして自分はコーヒーのカップを取ると椅子に座った。マグカップに口をつけたまま動かない翔子をじっと見ているようだった。翔子はその視線に耐え切れずココアを飲むのに集中している振りをした。意外なことに、体が要求していたのか母が作ったココアはおいしかった。温かさと甘さとが体に染み込む。ふっと、その中に剣持の気がこもっているのを感じた。ああ、さっき廊下でお母さんと話しをしながら気を込めてくれたんだ、と思った。剣持は優しい。ただその優しさが自分の求めているのと違うのだけれど。
 ふう、と自嘲気味に小さいため息をつく。体が少し弛緩した。それを待っていたかのように剣持が言った。
「昨日、なにがあったんですか?」
 少し硬い声だった。
「・・なにも。剣持さんに心配していただくようなことは何もありません。」
 翔子は動揺を押し隠して言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。視線はマグカップを見つめたままである。
「それで私が納得するとでも?一晩中私の頭の中で泣き続けておいて何を言っているんですか。」
 剣持さんに私の泣き声が届いていた?それも一晩中?嘘だ。
「そんなはずありません。だって、ちゃんと閉じておいたもの・・」
 そこまで言って翔子ははっと顔を上げた。自分から語るに落ちてしまった。
剣持の視線が痛ましげに翔子に注いでいる。翔子はいたたまれず下を向いた。剣持は夕べのことに何か気付いている。それで心配して来てくれた、というわけか。心を閉じ切れなかったのは自分の力が弱ったせいなのか、それともどこかで助けを求めていたためなのか、それは翔子にも分らなかった。
 ただ、もう疲れてしまった。これでまた以前のようなことの繰り返しが始まるのかと思ったら辛くて耐えられない、そう思った。翔子が剣持に求めているものは兄のような優しさではないのだから。剣持のくれる優しさになにか別の感情を見つけ出したいと必死になって探り、失望するのはもうたくさんだ。昨夜のことは確かにショックだったけれどお兄ちゃんとしての剣持に救って欲しくはなかった。
 そう思ったとき昨夜の恐怖がまた翔子を襲った。いったい何回繰り返せば忘れられるのだろう。永遠に救われる日が来ないような気がした。たいした被害はなかったのに、なぜこんなに後に残ってしまうのだろう。弛緩しかけていた体が再び強く緊張する。剣持の視線が気遣わしげなものに変わる。
 こんなのは嫌だ。もう、疲れた。終わるなら、終わってしまえばいい、何もかも。しかし、これだけは伝えておきたかった。それが終わりの始まりになる一言であってもかまわない。翔子は下を向いたまま掠れた声を絞り出すように言った。
「私、初めては剣持さんがいい。剣持さんが好きなの。」
 カチャン、と剣持のコーヒーカップが音を立てる。剣持が口を開く気配がした。しかしその返答を待つことなく翔子は続けた。
「・・でも、その気がないのならもう優しくしないで。私の気持ちを知っていて振りまわすのはやめてください。勝手に期待して1人で失望して、そんなことの繰り返しはもうたくさん。でも、私の気持ちは変えられないから、貴方からちゃんと切り捨ててください。」
 最後のほうは半分涙声だった。本当にいいのか、切り捨てられて耐えられるか、自信はなかった。ぎゅっと眼を閉じマグカップを握る。動いたら壊れてしまいそうな時間が過ぎていく。心臓の音だけが聞こえる。動けない体の代わりに全力で動いているようだった。
 どのそのくらいそのままでいたのか翔子にはわからなかった。実際にはほんの一瞬だったのかもしれない。不意にカップを握る翔子の手が大きな手で包まれた。石のように固まっていた翔子の体がびくりと震えカップに残ったココアが漣を立てる。剣持は片手でマグカップを取り上げると机に置き、翔子の前に膝を付くともう一度両手で翔子の手を包んだ。
「私も、貴女が好きですよ。」
 剣持の静かな声が聞こえた。剣持は今なんと言った?すぐには理解が出来なかった。誰が誰を好きだって?自分の中でたった今自分に向けられた言葉を反芻する。嘘だ。嘘?本当?でも本当にこれだけなの?
「その言葉の後に、でも、とか、だけど、とかはつかないんですか?」
 翔子はさっきよりはっきりした声で剣持に問うた。
「つきません。一世一代の告白だったのですけど、疑われてしまうとは自業自得、なんでしょうね。」
 剣持がため息混じりに、でもはっきりと言った。その手に力が込められる。翔子が目を開け、潤んだ瞳で繋がっている二人の手を見る。そこから視線を上げることは出来なかった。まだ状況が良く理解できない。剣持の片手が翔子の手から離れ頤にかかる。顔を持ち上げられ剣持と眼が合った。
「ずっと貴女が好きでした。」
 剣持はもう一度言った。その声にこもった熱とその眸に宿る想いに背筋がぞくりとする。剣持の視線の強さにその眼を見ていることができなかった。しかし視線を逸らすことも出来ず眼を閉じる。ゆるく目蓋を閉じた翔子の唇に剣持のそれが重なる。触れるだけの優しい口づけだったが翔子はようやく長かった自分の想いが実を結んだことを悟った。涙が出そうになる。その時ふ、っと翔子は自分のカサついた唇を思い出した。なんてことだ。初めてなのに、こんな唇でキスしたくはなかった。蒼い顔にカサカサリップじゃちっとも魅力的じゃないじゃない、そう思った途端に眉間に力が入る。剣持はそれに気付いたように唇を離した。そして笑いを堪えた顔で「十分魅力的ですよ。」と言った。心を読まれた、と確信した翔子は赤くなって両手を頬に当てた。そして
「ずっと、って、い、いつから?」
と話をはぐらかすかのように言った。
「初めて会ったときから。」
「うそ、その時私まだ1歳よ。」
「じゃあ、奈良で再会した時から。」
 剣持は笑った。
「なによ、いまさら・・・。」
と翔子は繰言のように言った。甘い睦言を誘うはずのその言葉は思わぬ真摯さで応じられた。
「貴女にはいまさら、でしょうけど私にはようやく、なのですよ。」
 真実の重い響きを持った声だった。その響きに翔子の表情が変わる。それを見た剣持は少し笑った顔のまま肩をすくめて見せて話を打ち切った。
「その話はまたいずれ。まずは貴女の体調を何とかしなくては。もう一度聞きますよ。昨日何があったんですか?」
 翔子は観念した。そして無言でワンピースのボタンを上から3つはずし左側の襟元を開いて見せる。そこには赤い痕とそれを消そうとして自らがつけた傷があった。少し血が滲んでかさぶたになっている。剣持の表情が険しくなる。
「それだけですか?」
 剣持の声がいつになく硬い。翔子は「もうひとつ」と小さい声でいい、スカートの裾を膝の上まで引き上げると剣持の手を取り膝の外側に導いた。そして「もう少し上。」と告げる。緊張した長い指が遠慮がちにしかし確固たる意思を持ってスカートの内の傷を探る。剣持の指が動くたびにそこから気が流れ込むのが感じられる。恥ずかしさよりも心地良さが勝っていた。剣持の指はすぐに短い蚯蚓腫れを捉えた。翔子の表情を見ながらそれをそっと端から端までなぞる。剣持に与えられるものであれば、今の翔子には痛みすら快感だった。
 剣持は翔子の顔に痛みの表情なかったことに安心したようだったが、見ないとわからない、とばかりに「失礼、」といいながらスカートの裾を傷の上まで引き上げる。そしてそれが大したものではないと分かり息を吐き、それでも不快そうな顔で訊いた。
「なんだってこんなところにこんなものが?」
 翔子は説明しようとしたが口に出すことが出来なかった。そこで剣持の手を取り両手で握った。そこに自分の額をつけ目を閉じる。そして昨夜の記憶を剣持に向かって開放した。体が震えだす。昨日の恐怖を思い出したせいなのか、自分の浅はかさを知られることへの不安なのか、自分でも分らなかった。どれくらい時間が経ったのか、剣持がひとつ深呼吸した。愚かな自分に剣持はどういう判断を下したのだろう。翔子はまるで裁きを受けるような恐ろしさを感じていた。やがて
「かわいそうに。怖かったでしょう。」
 剣持の声がした。優しい、それはそれは優しい声だった。翔子の肩から力が抜けた。目を閉じたまま素直に頷く。
「大丈夫ですよ。こんな傷はすぐに消してあげますから。」
 剣持は自分だって見ていたくないとばかりにさっと翔子の鎖骨と大腿に手を当てた。そして翔子の返事を待つことなく一気に気を流した。剣持のやり方としてはありえないほどの性急さだ。傷がカーッと熱くなりチリチリとした刺激を覚えたかと思うとすっと何も感じなくなった。ただ、体の中に剣持の気がたくさん入ってきているのが分った。
「これでいい。眼を開けて見てごらんなさい。」
 翔子はまず脚を見た。蚯蚓腫れがなくなっている。次に壁にかけてある鏡の前に立って鎖骨を確認する。赤い痕も自分で擦ってつけた傷もきれいに消えていた。しかし振り返った翔子の表情はまだ曇っていた。剣持がもの問いたげな目で翔子を見る。
「どこかに痛みが?」
「消えないの。」
 翔子が首を横に振りながら悲しそうに小さい声で訴えた。
「感触が、消えないの。まだ触られているみたいで・・気持ち悪・・」
 残った感触、それが昨夜から翔子を苛んでいたものの一つだった。精神的な恐怖だけならいずれ克服できたかもしれない。しかし、これは違った。解ってもらえるだろうか。翔子は問いかけるような視線で剣持を見た。しかし翔子の不安とは裏腹に「ああ、」と剣持が納得したような声を出し、優しい顔で
「気付いてあげられなくて、ごめんなさい。」
と言って腕を広げた。泣きそうな顔でおずおずと剣持に近づいた頼りなげな翔子の体はその腕にしっかり抱かれた。
 翔子の知っている温もりが伝わってくる。安心感とか心地良さとか赦しとか、昨夜から欲しいと思っていたすべてのものがそこにはあった。触れて欲しかったのはこの手なのだ。涙が流れ出る。温かい涙だった。剣持は自分の胸に翔子の顔を押し当てた。涙でシャツが濡れる。翔子が泣くに任せたまま剣持は先ほど伝えられた記憶の順に、翔子の体に触れた。時間をかけてゆっくりと進むその手は「司おにいちゃん」が翔子の背を撫でてくれたときのものと同じようでいて何かが違った。その何かはまさに翔子がずっと求め続けたもの。妹のような存在ではなく、一人の女性として抱きしめられ触れられることの喜びに呼吸が深くなる。翔子の体の記憶は幸福感とそして初めて感じる柔らかい快感へ少しずつ塗り替えられていった。
 長い時間そうしているうちに涙の止まった翔子だったが、落ち着いてくるとどうしようもなく恥ずかしかった。どういう顔をしたら良いかわからない。赤い顔で俯くほか何も出来ない。剣持は愛おしいものを見る眼でそんな翔子を見るとその手を引いてベッドに座らせ胸元のボタンに手をかけた。剣持の意図を察した翔子は身を硬くした。一方でそれを待ちわびていた自分に気付いて余計に恥ずかしくなる。その心臓はもう限界、というところまで早く動いている。剣持にはその音が聞こえているのではないかと思った。しかし剣持の動きが止まることはない。胸元のボタンがもう二つはずされた。翔子は天を仰ぎ眼を閉じた。
「こら。首筋を晒したら負けだと教えたでしょう?」
 剣持が冗談めかして言った。剣持がそうでもしなければ耐えられないほどに今の自分が艶めかしく見えることを翔子は知らない。ただ翔子は思った。負けたほうが喰われるのだ。体が小刻みに震える。その背中に剣持の手が廻った。反対の手でゆるく服をはだけられると胸のふくらみが少しだけ現れた。剣持はそこに己の唇を押し当てた。
 体の芯が熱くなるような感触に思わず翔子の口から声が漏れる。その声に含まれていたあまりの艶に自分で驚き慌てて手で口を押さえる。そっと眼を開けると小さな一輪の紅い花が胸元に咲いているのが見えた。嬉しかった。ずっと消えなければいいのに、と翔子が思ったとき剣持が外れているボタンをすべて留めた。
「はい、今日はここまで。これでもう眠れるでしょう?」
剣持は翔子が回復してきたのを見て取ると、当初の目的どおり翔子を寝かそうとした。しかし翔子はそれに抵抗した。寝てしまうのはあまりにも惜しかった。気分はもちろん良い。体の調子もだいぶいい。正直に言えば自分の体が剣持の気で満たされているというのは一種の快感でもあった。
「まださっきの話の続きを聞いてません。」
「続き?」
「ええ、私にはいまさらで、剣持さんにはようやく、のつづき。」
「ああ、今聞きたいんですか?」
「ええ、じゃなくちゃ、眠れません。」
 翔子は話の続きをせがんだ。そうしながら、まるで幼いときに絵本をもう一冊、とせがんだときのようだ、と翔子は思った。司少年はもうだめ、といいながらも結局は翔子の言うことを聞いてくれていた。今回も翔子の勝ちだった。

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