剣持は立ち上がって窓から少し遠くを見ながら話し始めた。 「この夏に父の歳を越えたんです。」 翔子にはこの意外な言葉の意味が分らなかった。そしてそれをストレートに表情に出し問うた。 「お父様?」 剣持はうなずいて続けた。 「私の父は私が生まれてまもなく、私を狙った呪詛を代わりに受けて亡くなりました。」 翔子の表情が強張る。 「ああ、これだから半病人には聞かせたくなかったんです。そんな顔をしないで下さい。もう随分昔の話なんですから。」 剣持はそういって翔子の頭を撫でた。翔子はその手を引き寄せ剣持を自分の隣に座らせた。そして自分も少し体の向きを変え剣持に寄り添うようにしてほんの少しだけ体重を預けてみる。何かの役に立つかは分らなかったけれど、そうせずにはいられなかった。剣持はありがとう、とでも言うかのように目を細めると翔子の腰に片手を伸ばし軽く引き寄せて話を続けた。 「私が一族の中でも強い力を持って生まれたものだから、それを快く思わない身内がいましてね、その人物が私を殺そうとしたんです。生まれてまもなくのときは父と母が私の身代わりになって亡くなり、10歳の時には私を育ててくれた祖母と、私に濡れ衣を着せるために無関係な人が何人か殺されてしまった。」 初めて聞く剣持の過去に驚きその内容に理解が及んだとき胸が痛んだ。その痛ましい内容とは裏腹な静かな声に剣持の心中を思った。こうやって言葉に出来るようになるまでにこの人はどれほどの思いを繰り返してきたのだろう。翔子は剣持が何年か前の松島で翔子と舞子に「この力を持って普通の家に生まれていたらどうなっていたか。私たちは幸運だったのですよ。」と言ったを覚えていた。悲惨な過去にもかかわらずそう言い切ったその強さが悲しすぎた。翔子の表情を読んだ剣持が翔子をなだめるかのようにその手で腰をトントンと叩いた。 「死神扱いで故郷にいられなくなった私をここのおばあさんが連れ出して下さったんですよ。そしてこの家に連れてこられた。小さい貴女方は無邪気に手を差し出してくれました。あの小さい4つの手にどれだけ救われたか。そして貴女のお母さんにも。」 あの母が?翔子はそう思った。 「朝子さんはね、貴女たちが私に懐いたと分かると、美容院に行きたいから3時間だけ一人で子守していて、と私に言ったんです。」 お母さん、なんてことを。悲惨な運命に翻弄されている身内をなくしたばかりの少年に言う言葉じゃないだろう。 「私は訊きましたよ。死神だと言われている私一人に大事なこの子達を預けていいのか、ってね。」 司少年はどんな顔をしてそう言ったのだろう。考えるだけで苦しくなる。 「そうしたら朝子さんは、『うちの子は死神には懐かないと思うわよ。なんていったって扇家の子達だもの。それより来週同窓会なのに、私はもう半年も美容院にいってないのよ、そっちのほうが重要だわ。お土産においしいケーキを買ってくるから後はお願いね。』と言ってさっさと出かけてしまいました。」 「お母さんたら・・。」 翔子にはなんと言っていいのか言葉がなかった。 「朝子さんらしいでしょ?でも、私を人として扱ってくれる人がいるんだと実感しましたよ。朝子さんのように、力を持たない普通の人に受け入れてもらったのは、久しぶりでしたからね。まだ人でいられる、人でいていいんだ、そう思えたのは私にとっては僥倖でした。」 ああ、そうか。おばあちゃんではだめだったんだ。力を持つもの同士では司少年を救えなかった。翔子は理解した。そして母の天然なあの性格に初めて感謝した。 「あの日はおばあさんも留守でね。この家に貴女たちと私の3人が残されました。それで貴女たちを遊ばせているうちに舞子さんが昼寝を始めてしまったんですよ。貴女は私を独り占めできるとばかりに膝に上ってきて、・・泣き出しました。」 翔子は剣持を見た。話の続きを無言で促す。 「大人がいなくって私の気が緩んだものだから、私の悲しみが伝わってしまったんでしょうね。それで、泣きながらも小さい手で一生懸命私の頭を撫でてくれましたよ。私はあなたを抱きしめて声を上げて泣きました。後にも先にも自分のために泣いたのはあの時だけだった。そのときから貴女は私にとって特別なんです。貴女たちが扇家の38代目を継ぐとは聞き及んでいました。もしかしたらいずれ共に戦うときがあるかもしれない、とね。扇家を出てからの修行は楽ではなかったけど、時が来たら貴女たちを守れるように、その思いが私を支えてくれました。そして大人になって再会したら、あのおちびさんがこんな綺麗な女の子になっていたわけです。あれはちょっと衝撃だったな。そしてこっちは背中に傷を負った上に顔にまで傷をつけられてみっともない姿だったわけですからねぇ。もうちょっと違うところで再会したかったかな。」 剣持は笑った。翔子もつられて少し笑った。 「初めはかわいい妹のような存在だと思っていました。でも奈良での再会以来、一度も妹だなんて思ったことはありません。そう思い込もうとしたことは何度もありますけど。ずっと、見守っているつもりだったんです。同業者かおにいちゃん、てあたりでね。それ以上は望まなかった。」 翔子はなぜ、と言う質問を口に出来なかった。理由など分りきっていたから。剣持はちょっと悲しそうに眼を伏せて続けた。 「私のせいで亡くなった人のことを思うとね。私は小さかったから何の責任もない、と逃げるにはあまりに多くの人がなくなっていますから。とばっちりで亡くなった人にしてみればいい迷惑ですよ。私のせいで亡くなった人、私のために亡くなった人、どちらも私がいなければ死なずに済んだのです。だから私は自分の人生をいつも誰かの借り物のように感じていました。自分の好きなように生きるのは許されない、ただすべきことをするだけの、贖罪だけで終わらせるべき人生なのだ、とね。」 翔子は剣持にしがみついた。違う、そんなのだめ、と叫んでしまいそうだった。 「それなのに、貴女は私に好意を持ってくれた。それが分かった時は嬉しかったですよ。でも、同時に絶対に受け入れてはいけないと思いました。私の手は決してきれいではありませんから。貴女はそれを承知で私の背負っているものを一緒に背負おうとしてくれるでしょう。でもそれは貴女には重過ぎて、いつか耐えられなくなる日がくるかもしれない。あなたの気持ちが、ちょっと力のある同業者に憧れる程度のものであれば、その日はすぐにやってくるだろう、とね。それに、私には闇の死繰人なんてありがたくない二つ名もある。私に係わることで貴女に何かあったら、と思ったら恐ろしかったのですよ。正直にいうと今でも不安なんです。私は臆病ですからね、一度手に入れたものをなくすのが怖くてしょうがない。それくらいなら初めから持たないほうがいい、そう思っていました。それにね、ばかげた考えだと頭ではわかってはいたんですがそれでも、いつもどこかで私のせいで亡くなった父の歳を越えて生きることはないだろうと思っていました。」 ばかげた考え、と剣持は言ったが翔子にはそうは思えなかった。似たような話を友人に聞いたことがあったから。友人はお姉さんが10歳で交通事故にあって亡くなったから顔が似ているといわれていた自分もそうなると信じていて、10歳の誕生日が来るのが怖くて怖くて家から出られなかったと言っていた。身内の死、というのは理不尽で大きな影響を及ぼすものなのだろう、ましてや自分のせいで亡くなったとなれば無理もない。 「ここ何年か、特に母の歳を越えてからは自分ももうすぐ逝くのかな、という気がしていました。今年になってからは尚更ね。あなたを受け入れてしまったら、私がいなくなった後、あなたが辛い思いをするでしょう?あなたを一人で泣かせるなんて、それだけは嫌だった。だから貴女にあんなことを言ったんです。あなたに恋人が出来て、幸せになってくれれば、私がいなくなってもダメージは小さいだろうと思ったものですから。それに、死ぬ前に自分の気持ちにけりが付けられるかもしれない、ともね。あの時は本当に最後の晩餐のつもりだったのですよ。」 剣持は言葉を切って翔子を見つめた。 「それが、この夏に思いがけず父の年を越したんです。何だか、別の世界に無一文で放り出されたような気分でしたよ。でも、それでいろいろ考えました。そして、そろそろ自分のために生きてみてもいいのかな、と思いましてね。それでまず欲しいものの一つくらいは欲しいと言ってみようかと・・。」 そういいながら剣持は翔子をぎゅっと抱き寄せた。 翔子は不意に、この重い枷をつけられた孤独な男が人生でただ一つ欲しているのは我と我が身だけなのだということに想いが至った。そして翔子はその事の重さに畏怖の念すら覚えた。 「ゆうべ一晩中私の名前を呼びながら、逢いたい、助けてと泣いているあなたの声を聞いていて、いてもたってもいられませんでした。泣き声はするのにいくら呼んでも返事はないし、ひどく後悔しましたよ。なぜ、もっと早く会いに行かなかったのか、私が貴女から距離を置いても貴女は一人で泣いているじゃないか、同じ泣かせてしまうなら自分の腕の中で泣いていてもらったほうがまだましだ、なんてね。それで、今日逢いに来たんです。」 剣持は続けた。 「本当に貴女には辛い思いをさせてしまいました。許しは請いません。身勝手は十分承知していますからただ謝るだけです。」 眼を伏せた剣持に翔子はしがみつくしか出来なかった。この人はいつもこうだ。自分のことをどんな風に言われても決して言い訳をしない。説明すらしない。そう、許されようとしないのだ。翔子はそれが悲しかった。「許してあげる、」と口で言っても所詮は言葉。自分の気持ちの深さを伝えられるとは思わなかった。そして翔子は体を乗り出して剣持の頬に口づけをした。 「一生根に持っていてくれても良かったんですけどね。あなたは優しすぎる。」 剣持は口の端だけで笑いながらそういった。眼は心なしか泣きそうに見えた。 いつも自分より強くて頼りになる存在だった男が初めて見せた弱気な顔。それを見て翔子は愛おしい、と思った。それは初めての感情だった。この人を守れるのは自分だけなのだ。そう思ったら不思議と心が落ち着いてきた。剣持が決心してくれたのなら、自分だって剣持の思いをちゃんと受け止めてみせる。『死繰人の女』なんて、いい響きではないか。剣持に不安だなんて言わせるものか。そして翔子は小さい声で囁くように言った。 「キスして。恋人同士のキス。」 剣持は真意を確かめるかのように翔子の眼を見つめてから 「貴女のお望みのままに。」 と言った。翔子の上に深くて熱い口付けが落ちてきた。長い指がしなやかに髪を梳き背中を撫でる。 頭の芯がクラクラする。正気ではいられなくなる怖さとそれでもいいと思う強い感情が翔子の中で錯綜する。感情ではなく生理的に涙が滲む。翔子は自分が呼吸を止めていたのに気付いていなかった。不意に剣持が顔を離した。翔子は呼吸をすることを思い出した。大きく息を吸って次のキスを待ったがそれが来ない。 「ん。」 頭が真っ白になっていた翔子は自分に正直に次をねだった。しかし剣持は小さく首を振るとドアの方へ視線を遣った。気を落ち着けてみるとドアの外に二人分の気配がある。 「!!」 苦笑いした剣持が立ち上がった。そして手早く翔子の乱れた髪を直し、目じりの涙を指ですっと拭うと気配を消しドアに近づいた。 剣持が勢いよくドアを開けると朝子と千景が転がり込んできた。 「おばあちゃん、お母さん!もう、二人とも何してるのよ。」 翔子は照れ隠しに少しきつい声で言った。さすがに、いいところだったのに、とは言えなかったが。 「だって、心配だったのよ。うまくいってくれないと困るなー、って。」 朝子が答えた。翔子の体調ではなく翔子と剣持の関係のほうが心配だったようだ。あまりの正直さに返す言葉がない。実は朝子は20年前から剣持を「うちの子」にしたがっているのだ。翔子は知らないことだが、剣持はそれを知っていた。 「朝子さんのお望みどおりの方向に向かうかもしれませんよ。もちろんどなたも反対なさらなければ、の話ですけど。」 剣持はそう告げた。朝子の顔がぱっと輝き千景を見る。千景もうなずいた。 「じゃ、決まりね。千一さんも喜ぶわ。司君、今日は泊まっていってね。お夕飯にご馳走を作るから。」 朝子はそういって踵を返すとちょっと振り向いて「お邪魔しました。続きをごゆっくり。」と言い置いて台所に向かった。続きなんてできるわけがないではないか。まったくあの人にはかなわない。二人ともそう思った。 千景は朝子の姿が見えなくなると 「鴛鴦神社の宮司から電話があったぞ。司に会いたいと言っておった。夜になったらここに来ることになったでな。後はお前たちで何とかしろ。」 と告げた。 「分りました。でもそれ前に翔子さんを寝かして、私も少し仮眠を取らせてもらいます。何しろ夕べはほとんど寝てないので。いつもの部屋、お借りしていいですか?」 剣持はそう言ったが、 「準備が面倒だから、おまえも翔子と一緒に夕飯までここで寝とれ。」 千景は若い二人を残して部屋のドアを閉めた。なんという保護者たちだろう。剣持は肩をすくめた。 「さ、翔子さん、今度こそ寝てください。私はここにいますから。」 翔子はベッドの奥の端に横になると自分の隣をトントンと叩き、剣持にここに寝ろ、と無言で伝えた。 「本当に貴女方は・・。」 剣持の苦言に翔子はもう一度強めにベッドを叩くと剣持をじっと見た。剣持は翔子にタオルケットを掛けると自分はその上から寄り添うように横になった。片肘を付き反対の手で翔子の体をトントンと、小さい子を寝かすかのように優しく叩く。 「こんなに狭くて寝られますか?」 翔子は剣持の問いに答えずに、別のことを言った。 「気の合わない人と一緒に出かけたり、食事をしたりするのって、本当に疲れるんですね。こんなに弱っちゃうなんて思わなかったの。やっぱり剣持さんの気が一番良いわ。体中に剣持さんの気が巡ってるのがこんなに気持ち良いなんて知らなかった・・。」 翔子は目を開けていられずに、半分眠りに落ちながらもそれだけは辛うじて伝えた。剣持は微笑みながらその告白を聞き、目を閉じた翔子の額にそっと口付けをした。そして翔子の寝顔を見ていた剣持もいつの間にか眠りに落ちて行った。 |