始まりの日 

梅花

※短編思い出せたらから設定が続いています。合わせてご覧下さるといいかと思います(管理人)

5・着物

 日が翳り始めたころ剣持は目覚め一瞬の後に自分がどこにいるか悟って苦笑いをした。狭いベッドの上でよくも眠れたものだ。すぐ隣で翔子はまだぐっすり眠っている。もう少しこの状況を楽しみたいところだが、鴛鴦神社の宮司が来る前に段取りをしなくてはいけない。そう思って剣持はそっと翔子の部屋を出た。勝手知ったる扇家である。居間では千景と朝子がお茶を飲んでいた。朝子は嬉しそうに剣持を呼び寄せると剣持の前にお茶を置いた。
「その様子だと何もなかったのね、残念だわ。」
「朝子さん、勘弁してください。」
 剣持は朝子に弱いのだ。早く本題に入らないと朝子さらにつつかれることになる。剣持はことの事情を説明した。そして話が終わると朝子が言った。
「分かりました。翔子のことは全部任せるわ。ところで司君、今夜泊まるんだから、もう着替えてもいいわね。そのシャツ、翔子の口紅でしょ。洗っておくからこっちに着替えて。」
 剣持は自分のシャツを見た。大学で翔子を抱き寄せたときに口紅とファンデーションが付いていたのだ。そして涙染み。たしかに宮司に会うのにこれはまずい。剣持は朝子が出してきた着物に着替えた。新品だが、剣持のサイズだ。
「帯は千一さんのだけど、着物はあなたのよ。よく似合うわ。それ翔子が縫ったの。着てもらえてよかったこと。」
 朝子の説明を聞くまでもなく、翔子が縫ったことはわかった。あまりにも気持ちがこもっていたから。
「春頃だったかしら母さんが翔子と舞子に雑巾くらい縫えるようになれ、って言ったのよ。そしたら舞子が雑巾なんかつまらない、って言い返してね。それなら着物でも縫ってみろ、ってことになって、母さんが反物を買ってきたの。失敗は許さないってね。それで舞子は今近江君のを縫っているところ。初心者だから当たり前なんだけど、なかなか進まないのよね。翔子は・・。」
 朝子は1回言葉を切って剣持を見た。
「貴方たち、けんかでもしていたの?縫い始めてじきに翔子の口からあなたの名前が出なくなって、翔子の素行不良が始まったのよ。大学生なんだから、夜遊びくらいしても良いけど、ちっとも楽しそうじゃなくってね。そのうち元気がなくなって顔色が悪くなって、母さんの言うには気が荒れているって。でも母さんがね、あの着物が縫えているうちは大丈夫だから放っておけって言うもんだから黙って見ていたのよ。確かにね、飲んで帰ってきては夜中にチクチクと縫って、一仕事終わると少し落ち着いた顔になってたわ。いつだったか、『たぶん袖を通す人はいないと思うけど』って言ったこともあったけど、それでも縫い続けてた。それで、つい3日前に完成したのよ。」
 剣持に返す言葉はなかった。
「着心地が悪いだろうに、よく着られたな。」
 千景が入ってきた。手には女物の着物を2着持っている。
「さて、どっちが合うか・・。」
千景と朝子はその着物を広げて剣持の着物の胸の辺りに当てて、
「うん、こっちのほうがしっくりくるわ。」
と片方を選んだ。朝子がそれを衣桁にかけている間に千景が剣持に言った。
「どうだ、罰を受けているような気分だろう?」
 剣持は困った顔で頷いて言った。
「まったくですよ。おばあさんも人が悪い。よりによってこんな念のこもりやすいものを作らせて。」
 着物には念がこもりやすい。朝子にはわからないが千景と剣持には翔子の恨み言や悲しみや後悔、その他諸々の感情がありありと感じられていた。
「いや、お前に着せる前にちゃんと祓っとくつもりだったが、こんなに急とは思わなかったもんだからな。」
「いいですよ、私が浄化させますから。」
 いつもの剣持ならさっと念を散らしてしまうところだが、今回は浄化する、という。千景は「ほう。」とからかい半分の眼で剣持を見やった。少し居心地の悪い顔で剣持が言い返した。
「なんですか?」
「いや、それほど大事なら、手放すなよ。」
「・・いいんでしょうか。」
「まだ逃げる気か、この馬鹿者。お前には女の幸せなんて理解できんじゃろうから教えといてやる。翔子が幸せといえば、それは幸せなんだ。お前の考えるもんと違ってもな。これ以上逃げたらわしが許さんぞ。」
「はい。」
 剣持は小さくそういうとまだ日向になっている縁側にでて、なにやらぶつぶつとつぶやき始めた。そしてそれは辺りが暮の薄明に支配されるまで続いた。
「あー、お母さん、なんで着せちゃったの?だめだめ、脱いで、お願い脱いでー。」
 廊下の端から翔子のけたたましい声が聞こえてきた。朝子と千景が何事かと顔を出す。ばたばたと廊下を走ってきた翔子が剣持の着物を引っ張る。ここ数ヶ月の恨みつらみが知られてしまうのを恐れた翔子は必死だ。
「これ、翔子。司君になにするの。」
 朝子がたしなめる。朝子にはわからないのだ。翔子は説明の仕様がなく
「だってー。」
と子どものように言った。剣持はそんな翔子に
「手遅れですよ、翔子さん。もう、ほとんど浄化は済みました。後はこれだけ。」
と笑って告げ、袂の辺りを軽く持ち上げた。
 『逢いたい』と泣きそうなほどの想いがそこにはあった。気持ちが通じた今になってみれば滑稽なほどの想いの強さだった。恥ずかしい。早く祓っておけばよかった。しかし、剣持が散らすではなく『浄化』と言ったのを翔子はちゃんと聞いていた。そしてどういう作法で浄化するのか、見てみたかった。そこで翔子は自分で祓おうという考えを捨て、剣持から手を離した。
剣持は優しく翔子を見下ろすと、今度は着物の袂に向かって
「私も逢いたかったですよ。」
と静かな声で応えた。満足したとでも言うように一瞬ゆらっと揺れると念が消えていった。翔子の片目から一滴だけ涙が流れ出た。
剣持の指がそれを拭いながら言った。
「ありがとう。翔子さん」
「さて、お二人さん。いいムードのところ悪いけど、お客さんが来る前にごはんにしましょう。翔子の着付けに時間がかかるから。」
後ろから朝子の声が飛んできた。
「着付け?なに、私が着物着るの?」
 翔子は朝子を見た。朝子は衣桁を指差しながら言った。
「司君がそうしろっていうから。」
「鴛鴦神社の宮司があの馬鹿息子を連れてくるみたいですからね。ちゃんとした支度でお迎えしてください。」
「何で私が?」
 翔子にはわからなかった。相手は剣持に会いに来るのになぜ自分が出て行かなくてはいけないのか?被害者として証言でもしろというのか?
「あのですねぇ、ここは誰のうちですか?そして私は誰?」
 剣持は説明した。この家に剣持がいるとわかった以上は扇と剣持の間になんらかの関係があると思われたはずだ。そして、剣持の死操人としての顔を知るものは、死操人が仕事上の付き合いしかない女の貞操のために報復するとはまず思わないだろう。中途半端な憶測は、『死操人の女』として翔子の身に危険が及ぶかもしれない。だから扇と剣持の利害を超えた結束を示しておいたほうがいい。扇と剣持の両方を一度に敵に回したいものはそうそういないはずだから。だから、大学ではおおっぴらに言っていない翔子が教主だと言うこと、そして翔子と剣持のつながりをそれとなく、しかしはっきり見せ付ける、というのだ。
「馬鹿息子に襲われた被害者じゃなくてね、剣持司を客に迎えている教主として会ってください。これはいわばトップ会談ですよ。だから話の相手は息子じゃなくて親のほうです。」
「解りました。でも、おしどりさんはなにしにくるの?」
「術を解いてほしいのと、神様のお使いの鴛鴦を私が持っているから返して欲しいってことでしょう。」
 剣持が庭に目を向ける。翔子もそちらを見やった。そこには可愛らしいオシドリが一羽剣持の結界の中に蹲っていた。

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